2018年7月20日に92歳で死去した松下康雄(まつした・やすお)氏は、第27代日銀総裁として、1990年代後半の金融危機対応や日銀法改正に尽力した。日銀総裁と大蔵(現財務)事務次官の両方を務めたエリート中のエリート。しかし部下の不祥事を受け総裁を任期途中で辞任した後は、公の場で発言することはほとんどなく、静かに逝った。老衰だったという。
神戸市出身。1950年に東京大法学部卒業後、大蔵省に入省。順調に出世街道を歩み、主計局長を経て82年に事務次官に就任。退任後は政府系金融機関に天下らず、出身地の旧太陽神戸銀行に転じて87年頭取に就任した。都銀の一角とはいえ、関西ローカルの趣の強い銀行だけに、最強官庁トップの天下り先としては「役不足」の感があり、その転身は周囲を驚かせた。
旧三井銀行との合併を実現
だが、松下氏には運があったようだ。1990年に旧三井銀行との合併を実現させたのだ。その後の金融再編の先鞭をつけた形で、合併後の旧太陽神戸三井銀行(後のさくら銀行、現在は三井住友銀行)の会長を務めた。
これだけでも結構な功績だが、それで終わらないのだから、松下氏は強運だった。日銀総裁ポストが回ってくるのだ。
当時の日銀総裁は、日銀プロパーと旧大蔵事務次官が交代で就く「たすき掛け人事」が慣例だった。1994年、日銀プロパーだった三重野康氏の後継の選任の中で、当時の大蔵次官経験者では吉野良彦氏が実力者とされ、当の斎藤次郎次官らは吉野氏を推したが、吉野氏が固辞した結果、松下氏にお鉢が回り、同年12月に総裁に就任した。民間銀行トップを務めたキャリアも、大きな材料になったとされる。
ちなみに、松下氏以降、大蔵・財務次官経験者で日銀総裁に就いた人はいない。「大物次官」といわれた武藤敏郎氏は副総裁止まり。現総裁の黒田東彦氏は財務省出身だが、次官ではなく財務官だった。
総裁就任後の松下氏は、バブル経済崩壊後の景気低迷や金融危機への対応に追われた。1995年には公定歩合を当時としては前例のない0.5%に引き下げ、「庶民の金利収入が減る」と批判を招いた。木津信用組合、住宅金融専門会社(住専)などの破たん処理にもあたったほか、97年の山一証券の破たんの際には、信用秩序維持のため、無担保無制限の特別融資(日銀特融)を発動。金融危機回避に奔走した。
部下らの「接待汚職」で引責辞任
もう一つの実績は、政府からの独立性を高めるための日銀法改正だ。1980年代後半のバブル経済の発生は、政府がインフレ的な政策を行うよう圧力をかけたのが一因との見方が広がっていた。グローバルでみても、政府から独立した中央銀行が、中立的・専門的な立場から金融政策運営を行うのが適当だとの考えが支配的だった。独立性と透明性を高めた日銀法が公布されたのは、松下総裁時代の97年6月だ。
1998年4月の法施行後も総裁を続けるはずだった。しかし、年明け後、大蔵省・日銀への金融機関による「接待汚職」が発覚し、日銀職員も逮捕された。松下氏は、その責任を取る形で、98年3月に福井俊彦副総裁(2003年から第29代総裁)とともに任期途中で引責辞任した。
激動の時代を駆け抜けた3年余りだった。「辞め方」が良くなかったからか、辞任後に公の場に出ることはほとんどなかった。本人は日銀時代よりも、三十数年間籍を置いた大蔵省に愛着があったという。
日銀と財務省は2018年7月25日、松下氏が死去したという事実を簡単に発表した。葬儀・告別式は近親者で行い、「お別れの会」も開かない。決して目立とうとしない、松下氏の美学を感じさせる。