部下らの「接待汚職」で引責辞任
もう一つの実績は、政府からの独立性を高めるための日銀法改正だ。1980年代後半のバブル経済の発生は、政府がインフレ的な政策を行うよう圧力をかけたのが一因との見方が広がっていた。グローバルでみても、政府から独立した中央銀行が、中立的・専門的な立場から金融政策運営を行うのが適当だとの考えが支配的だった。独立性と透明性を高めた日銀法が公布されたのは、松下総裁時代の97年6月だ。
1998年4月の法施行後も総裁を続けるはずだった。しかし、年明け後、大蔵省・日銀への金融機関による「接待汚職」が発覚し、日銀職員も逮捕された。松下氏は、その責任を取る形で、98年3月に福井俊彦副総裁(2003年から第29代総裁)とともに任期途中で引責辞任した。
激動の時代を駆け抜けた3年余りだった。「辞め方」が良くなかったからか、辞任後に公の場に出ることはほとんどなかった。本人は日銀時代よりも、三十数年間籍を置いた大蔵省に愛着があったという。
日銀と財務省は2018年7月25日、松下氏が死去したという事実を簡単に発表した。葬儀・告別式は近親者で行い、「お別れの会」も開かない。決して目立とうとしない、松下氏の美学を感じさせる。