日中秘密交渉にも関与
佐藤氏との出会いには劇団四季が深く関わっている。劇団四季創立メンバーの有力俳優、水島弘さんの父が佐藤氏と同郷で、大学でも鉄道省でも先輩だった。そんな縁から佐藤氏の寛子夫人が長年、四季のチケットを公演のたびに10枚ずつ購入してくれていた。
長州訛りのしゃべりが残り、ぶっきらぼうな人と思われがちだった佐藤氏。しゃべり方を直す家庭教師役を寛子夫人から頼まれ、浅利氏が招かれる。やがてソフトなメディア対応を考えるブレーンの一人に。寛子夫人を積極的に多彩なメディアに登場させ、「気さくなファーストレディ」を演出したのは浅利さんだった。佐藤氏の著書『佐藤栄作日記』には浅利氏の名前が19回も出てくる。民間人では異例に多い。
日中国交正常化についても、佐藤政権時代から、水面下の工作が行われていたと浅利さんは明かしている。
中国首脳にパイプがある人物として、密使役を務めたのは日中文化交流協会の事務局長だった白土吾夫氏。戦後30回以上も訪中し、毛沢東主席とも何回も会っている。浅利さんが直接、推薦し、佐藤-白土会談が何度も極秘にもたれ、浅利さんも同席した。白土氏は中国に出向き、佐藤首相の胸の内を周恩来首相に伝える役目をした。交渉は半年ほど続いたが、最終的に佐藤首相は断念した。中華民国の蒋介石総統が「以恩徳怨=徳を以て恨みに報いる」との考えから、日華平和条約で日本に対する賠償権を放棄してくれていたことへの恩義を重視したからだ。