演出家の浅利慶太さん死去 85歳、 劇団四季「キャッツ」、長野五輪開閉会式

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   「劇団四季」の代表を長く務め、日本にミュージカルを定着させた演出家の浅利慶太さんが2018年7月13日、都内の病院で悪性リンパ腫のため亡くなった。85歳だった。劇団四季が明らかにした。

   1998年の長野五輪では開会式の総合プロデューサーを担当した。中曽根康弘元首相や石原慎太郎元東京都知事らと親しく、政府の教育再生会議委員も務めるなど、演劇人の枠を超えて幅広く多方面で活躍した。後日、お別れの会を開くという。

  • 浅利慶太さん(劇団四季のホームページより)
    浅利慶太さん(劇団四季のホームページより)
  • 浅利慶太さん(劇団四季のホームページより)

中学時代は野球部のキャプテン

   1933年生まれ。父は小山内薫と共に築地小劇場の設立に参画した浅利鶴雄。大叔父に二代目市川左團次。

   中学時代は野球部のキャプテンで、芝居には関心がなかったが、慶応高校入学後に演劇部に。一年先輩に、のちに俳優となる日下武史や、作曲家の林光がいた。同高の英語教師で、すでに劇作家としても著名だった加藤道夫氏に演出作品を激賞されたこともあって、本格的に演劇の道に進む。

   53年、慶應大在学中に 日下ら慶應や東大の学生と劇団四季を結成。文学座や俳優座など既存の新劇に対抗し、主にフランスの現代文学作品を上演したが、集客には苦労し、日下と一杯のかけそばを分け合ったこともあった。

   60年代に入って新しくできた日生劇場の制作営業を任され、こけら落しのカール・ベーム指揮ベルリン・ドイツ・オペラの公演や、越路吹雪連続リサイタルなどを担当、商業公演の興行実績を積んだ。70年代に入ると、海外ミュージカルの翻訳上演「ジーザス・クライスト=スーパースター」「ウェストサイド物語」「コーラスライン」などを次々とヒットさせ、ショービジネスの成功者として名をとどろかすようになる。83年の「キャッツ」公演では初めてコンピューターによるチケット販売システムを導入。空前のロングランを実現した。

「中曽根-レーガン会談」演出

   その後は海外にも活動の場を広げ、ミラノ・スカラ座の「蝶々夫人」をはじめ、「エレクトラ」「トゥーランドット」などオペラの演出も手掛けた。中曽根康弘首相のブレーンとしても知られ、有名な日の出山荘の「中曽根-レーガン会談」なども演出した。長野冬季オリンピックでは開閉会式をプロデュース、国際的に脚光を浴びた。

   翻訳物だけでなく、オリジナルミュージカルにも力を入れ、「夢から醒めた夢」「ユタと不思議な仲間たち」などを創作。とりわけ「昭和の歴史三部作」と呼ばれた「李香蘭」「異国の丘」「南十字星」の3作品は、世代を超えて語り継がねばならない戦争の悲劇と、昭和の実相を描いた作品として社会的にも話題になり、ミュージカルとはなじみが薄かった中高年層にも受け入れられて再演を続けた。「李香蘭」は中国公演でも高く評価された。

   2014年、代表を務めていた劇団四季(四季株式会社)を退き、浅利演出事務所を設立。15年4月に第1弾となる「オンディーヌ」を、その後も年4本ペースで公演していた。盟友、日下武史さんは17年5月に亡くなったが、同9月には日下さんをしのび、日下さんの最後の舞台となった「思い出を売る男」(加藤道夫作)の追悼公演をした。

   紀伊国屋演劇賞、菊池寛賞、読売演劇大賞などを受賞。劇団四季はホームページで「演劇界に真の意味でのプロフェッショナリズムを確立し、数多くの俳優、スタッフを発掘、育成した成果は、日本の劇場文化を大きく発展させました。劇団四季のメンバーにとっても、常に精神的支柱であり続けました」と偲んでいる。

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