保阪正康の「不可視の視点」
明治維新150年でふり返る近代日本(5)
弱者の側に立つ「帝国主義的道義国家」(その1)

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   近代日本が選択すべき国家像は、現実の帝国主義国家(後発)のほかにも幾つかの道があったというのが、このシリーズの立脚点である。ほかにどういう道があったか、この問いに私は三つの像が考えられると書いた(第1回)。それらの像のほかにも考えられるだろうが、私はあえて三つに絞って、近代日本のもうひとつの側面を考えていきたいのだ。三つの国の姿をそれぞれエッセイ風に書いていくが、そのひとつが、「植民地解放、被圧迫民族の側に立った帝国主義的道義国家」である。

  • ノンフィクション作家の保阪正康さん
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  • 宮崎滔天は孫文の革命思想をベトナムやインドシナに広げようとした
    宮崎滔天は孫文の革命思想をベトナムやインドシナに広げようとした
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辛亥革命に協力した志士たちの実像

   この系譜に列なる思想家や政治家などを具体的に捉えてみることで、道義国家確立の方向性を考えてみたい。もともとこの色彩は、大正時代の国家主義運動に濃くあらわれるのだが、明治期でいえば国権派に転じていく徳富蘇峰のほか陸羯南、三宅雪嶺などの思想を細部にわたってみていくと、そのような傾向が窺えてくる。しかし、私はあえて孫文の辛亥革命に協力した志士たちの姿にその色合の濃さを見るのである。

   辛亥革命に協力した日本人には、さまざまなタイプがいる。頭山満の玄洋社関係の人びと、宮崎民蔵、寅蔵(滔天)兄弟、山田良政、純三郎兄弟のほか政治家、実業家、軍人、それに言論人など挙げていけば次々に名がある。私は山田良政に関心をもって調べたことがあるのだが、山田は幼少期から陸羯南と親しく、かなり影響を受けている。明治31年に中国にわたり、中国内部の情報を探る役を担ったりする。南京同文書院での教員という職を得て中国に赴き、孫文の革命運動を支援する役を引き受けている。

   山田は孫文の革命思想(三民主義、五権憲法)に魅かれると同時に、清朝帝制が先進帝国主義の餌食になっている状態を怒り、孫文がその打破を目ざす革命家であることで支援の姿勢を崩さない。孫文とその同志の蜂起は、1900年の恵州起義を第1回とし、それから10回の蜂起をくり返す。そして辛亥革命は1911年にやっと成功するのである。

   山田はその第1回の起義のとき、孫文の密命を帯びて恵州の蜂起グループとの連絡役を務めている。その折りに政府軍につかまり、殺害されている。政府軍の将校は、「お前日本人ではないか。それを認めるなら解放する」と言っているのに、「いや自分は中国人である」と革命グループの一員であることを主張しつづけ、死を選んだ。このとき山田は32歳であった。

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