もともとの日本人の国民的性格とはどのようなものだったか。その性格が、明治150年の出発の地点でどのように変わるよう新政府によって要求されたのか。そのことを今回は見つめていきたい。
明治150年論を多様な視点で、とくに歴史年譜のうえでは不可視の部分では、どのような姿や形が問われていたのか。そのことを見ていくために、日本人の国民的性格を確かめていくのは欠かせない。
幕末~維新の外国人の日本人論は「きわめてまっとう」
幕末から維新にかけて、そして明治に入ってからも、日本には外交官、事業家、宣教師、それに各教育関連機関の教師としてのお雇い外国人が次々にやってきた。総体的に知識人であったから、彼らののこした日本人論はきわめてまっとうであり、その分析もかなり当たっているように思う。私は彼らの見方に一定の信頼を置くのだが、それを江戸期に培われてきた日本人の国民的性格とみてまちがいないように思うのである。
16世紀に日本を訪れた宣教師のフランシスコ・ザビエルは、日本人の特性として「名誉心が強い。道理に従う。知識を求める。礼儀正しい。善良である。貧は恥ではない。和歌を作る。上下の序列、武士の高位」(『「日本人論」の中の日本人』、築島謙三)を挙げている。幕末、維新時に日本を訪れた外国人たちもこのザビエルと同じような印象を書きのこしている。ということは3世紀近くを経ても日本人の国民的性格はそれほど大きな変化をとげていないことになる。
17世紀に日本を訪れ、徳川家康の外交顧問といった形になるウイリアム・アダムス(日本名・三浦按針)は、「礼儀正しく、性質温良、勇敢、法は厳しく守られ、上長者には従順である」と書いている。
全体に日本人は、子供はめったにぶたないし、よくかわいがると言い、子供の側は親に対して、従順であり、家族という形態の秩序がよりバランスよく保たれている、と理解していたようである。
対外戦争ない3世紀は「武に対して『冷めた目』」
開国した日本にやってきたイギリスのベテラン外交官オールコックは冷静に日本人の性格を見つめている。彼は日本語を学び、そして日本人の生活を理解する。そこには「政府の政策により国民は疑い深い。侍役人はウソをつき、ほかの侍および庶民は礼儀正しく善良である。低階層の人にも奴隷感情はない。固苦しいまでの形式主義。したがって人への気遣いが強く、敬語の使用が厄介である。国民・国家への誇りが強い。子供は<自然の子>といってよいほど奔放に遊ばせる。日本は子供の楽園である」といったことが書いている。
こうしてみてくると、この16世紀から19世紀まで、日本人の性格は、道理に従い、名誉心を重んじ、礼儀正しく、好奇心も強い、しかし上下の身分差があり、集団主義的であるといった性格を持ち続けていたことになるのではないか。とくにこの3世紀は、対外戦争を体験していないために、武に対しては冷めた目を持ち、武術にむかう精神とエネルギーを人格陶冶の手段に変えていく理性や知性を持っていたといえるのではないか。
帝国主義国家には「良質の国民性」が邪魔になる
このような日本人の性格には、むろん近代という視点(つまり明治維新後の国家像という枠組みのもとでは)から見れば、プラスとマイナスを抱えこんでいるといっていいであろう。16世紀からの世界史では、先進帝国主義国により弱小国は、収奪・抑圧・暴力などの対象となった。日本はその埒外にいることによって、このような加害国・被害国の図式とは一線を引く国家であった。そこで生まれた日本人の性格は、人類史の上ではきわめて先見性をもっていたことになることがわかってくる。
ところが後発の帝国主義国家として、国際社会に出ていくことになった日本は、こうした良質の国民性(道理に従う、礼儀正しい、名誉心を尊ぶなど)は、むしろ邪魔になる。逆に上下の身分差を容認し、個人より集団主義を尊ぶといった性格は、帝国主義国民像としてもっとも強調され、美徳となったのではないか。この歪みを私たちは今、冷静に見ていくことで明治維新150年という尺度の功罪を論じられるのではないかと思う。
私はこの国民的性格をもとに、他の三つの国家像を考えていくべきだと思う。そこには歴史を舞台にしての知的想像力を試すという意味も含まれる。(この項終わり。第5回に続く)
プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、『昭和陸軍の研究(上下)』、「昭和史の大河を往く」シリーズなど著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。