保阪正康の「不可視の視点」 
明治維新150年でふり返る近代日本(2) 
「奴隷解放宣言」で実現できたはずの「道義国家」

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江戸時代のような連邦制国家になっていれば

   もし民権国家が完成していたら、天皇と国民の関係について大日本帝国憲法とは異なる体系をもつ国家になっていたことが想像される。私は明治初期の自由民権運動そのものが近代日本の現実の史実にはあらわれてこないにせよ、地下水脈として続いていたのではないかと考えている。それが大日本帝国解体後の現在の憲法の幾つかの部分に具体的に反映しているのではないかとも思う。

   そして第四の道である。これは江戸時代の国家像をもとに独自の連邦制国家としての道である。明治4年7月に西郷隆盛が主導権をにぎる形で廃藩置県の勅令が発せられる。新政府は全国統一のためにこの処置はやむをえないとしても、この廃藩置県は、全国の旧藩士たちの生活を根底からくつがえすことであり、不平士族の反乱がそれこそ全国化することもありえた。それを予想したのか、新政府はまさに抜き打ちで行った。

   西郷や大久保利通が主導権をとっての政策と知って、薩摩藩の最高指導者だった島津久光は、激高したともいわれている。

   この廃藩置県が不平士族の反乱に結びつくわけだが、つまりは新政府の軍事力そのものが各藩の行動を抑えることにもなった。ただここで考えておかなければならない「歴史的視点」についてである。それは江戸時代の270年近く、日本はまったく対外戦争を行っていない。国内にあっても内乱の類はない。その結果どうなったか。本来戦うべき要員の武士階級(国民の1.2%だから35万人ほどになる)は、戦うべき武術の訓練を、人格陶冶の手段に変えてしまった。つまり武術を文化に変えたのである。きわめて抑制された民族国家をつくりあげたといってもいいだろう。

   かといってそれぞれの藩は、戦(いくさ)に備えて何もしなかったわけではない。情報戦、武器の隠匿、さらには戦術の研究を続けている。

   私は、明治維新時に250藩余の藩のうち大藩である30藩ほどを軸にし連邦制国家をつくるべきだったと思う。江戸時代自体が、連邦制国家のようなものだったからである。この点は改めて緻密に吟味しなければならない。

   四つの国家像をさらに新しい視点で検証を続けていこう。(第3回につづく)




■プロフィール
保阪正康(ほさか・まさやす)
1939(昭和14)年北海道生まれ。ノンフィクション作家。同志社大学文学部卒。『東條英機と天皇の時代』『陸軍省軍務局と日米開戦』『あの戦争は何だったのか』『ナショナリズムの昭和』(和辻哲郎文化賞)、「昭和史の大河を往く」シリーズなど著書多数。2004年に菊池寛賞受賞。

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