保阪正康の「不可視の視点」 
明治維新150年でふり返る近代日本(2) 
「奴隷解放宣言」で実現できたはずの「道義国家」

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道義国家なら「征韓論」「征台決行」どうなった

   このころの日本には、奴隷を認めないとするこのような真面目さがあった。私がいう道義国家とは、こうした処置の折に国際社会にむけて「奴隷解放宣言」を発する度量をもつことだった。こういう声明を発表していたら、このころ起こっていた征韓論、実際に踏み切った征台決行なども国際社会の枠組みの中で議論されることになり、開国日本の進路も異なったのではないかと思われるのだ。

   第三の道(自由民権を柱にした国民国家像)では、明治6年の征韓論に敗れて下野した板垣退助、江藤新平、副島種臣、西郷隆盛らの中から板垣のように国会開設を求める民権論者が出てきて、明治10年代は自由民権運動が全国に広がっている。当初は板垣の組織する愛国社などが中心になるが、明治13年ごろには全国の民権論者を集めて国会開設の運動が起き、自由民権運動は燎原の火のように広まっていく。

   政府側で軍をにぎる山県有朋は、この運動が軍内にはいってくるのを恐れ、「軍人勅諭」(明治15年)を布告している。軍人は政治に関与してはならないというのであった。一方で政府側は集会条例を制定し、反政府運動に強い威圧をかけている。明治10年代初期には、名古屋事件、大阪事件のように民権論者の起こす暴動は、一歩間違えると内乱に転化するような激しさがあった。

   自由民権運動のなかでは、土佐の植木枝盛などがまとめた憲法草案は、軍事、外交に天皇の権威を認める一方で、国民の基本的権利にも言及していて、きわめて民主的な内容を伴っていた。

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