71歳で亡くなった衣笠祥雄さんを語るうえで真っ先に思い浮かぶのは、いまだ破られていない2215試合連続出場のプロ野球記録。当初の背番号28も相まって、「鉄人」の愛称で親しまれた。
だがケガと無縁だったわけではない。1100試合を超えた1979年8月1日の巨人戦で、プロ人生最大の危機を迎える。打席に立つ衣笠さんの体に向かってきた投球が左肩を直撃し、倒れこんだ。
ボールの縫い目が肌にくっきり
左肩肩甲骨の骨折で全治2週間。医師は試合出場不可能と判断した。1986年6月6日放送の「17年間休まなかった男~衣笠祥雄の野球人生~」(NHK)が、衣笠さんらの肉声を交えて当時を振り返っている。
診察した久安徹医師は「左肩肩甲骨の部分で内出血がひどくて、当たったボールの縫い目が3~4センチついていました」と重傷さを語った。広島の福永富雄トレーナーは「家に帰って、これはダメかなと、カミさんと食事していて、涙が出てきて、残念だと思っていたんです」と悔やんだ。
衣笠さんの痛みは激しく、夜明けまで眠れなかったという。
だが翌日の巨人戦、グラウンドにいた。「代打、衣笠」。アナウンスが響き、右のバッターボックスに立った。
記録は三振。全球フルスイングの三球三振だった。本人は当時をこう語っている。
「振ってやろうというか、自分では自信があったね。ただ本当に悲しいかな、外に3球投げてきたんだけど、外の球に対して、左肩がこう伸びるでしょ。でも伸びる瞬間にパッと後ろに引いちゃうんだよね。防衛本能でしょうね。ここまでいって、『よしつかまえた!』と思ったら、パッと左肩が逃げちゃう。打てないの。あれが悔しくてねえ」
身振り手振りで、どこか楽しそうに思い出す。屈託のない笑顔は野球少年のそれだった。
「僕はね、痛みよりも、野球やってるほうが心が楽なんですよ。野球をやらないで、自分がいないチームを家でじっとテレビで見てたら、もっと僕の自分の心は痛むだろう。焦燥感というのかな。それがもっと出る。そういう思いはしたくない。ゲームがあるときは自分が参加していたい。これは僕がプロ入りしたころゲームに出られなかったから、その時の『出たい』という気持ちをいまだに持ってる」
「僕にとって三振というのは、野球の中の一部ですね」
豪快なフルスイングは衣笠さんの大きな魅力だ。その結果積み上げたのが「三振」の数。引退までに通算1587個という当時の日本歴代最多記録を樹立した。
衣笠さんにとって三振はただのアウトではなかった。番組で語っている。
「僕にとって三振というのは、野球の中の一部ですね。仕方ないですよ。諦めているわけじゃないですよ? 少なくとも振る瞬間は当たると信じてるんです。ここをね、時々『お前わざと三振してるのか』という人がいるんですけど、そうじゃない。少なくとも自分では当たると信じて力いっぱい振ってるんですよ」
「それがたまたま当たらないだけですよ」。冗談めかして、くしゃりと表情をほころばせた。
スランプに陥った時、空振りが転じて福となす試合があった。強烈なフルスイングで空振りすると、続く投球で左前適時打、次の打席では本塁打を放った。「ああいう空振りせんかったからね。あれでなんか気持ちが楽になったね」。メモ帳にはこう記録した。
「おまたせしました、というようなスイングが今日は出た。空振りだったけれど、本当に今シーズン初めて気持ちのいい振りだった。おかげでタイムリーとホームランが出たと思う。右側にウェイトを残し、思いっきり振ることが自分のスイングなんだと思い出した。これで本当に悩みが切れてほしいものだ。チームもいいムードだし、僕もこれからだ」
日本で2000試合以上の連続出場記録を持つのは、衣笠さんただ一人。本人は連続出場をどう捉えていたのか。番組では最後にこう話している。
「まあ一番に、いつも僕に仕事があったということですね。野球がしたいと思って、それが仕事になったでしょう。ものすごく幸せなことだ。連続試合出場というのは、野球を仕事に選んだ以上、いつも試合に出ていられるということ。僕にとって一番幸せなことじゃないですか」