中国が仕掛けた「オイル元」爆弾 米ドル覇権への挑戦状(上)

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オイルショックから生まれたオイルダラー

   第1次石油危機終結後からわずか3カ月余りの1974年7月、米国財務長官に新任したウィリアム・サイモン氏が2週間にわたる中東の旅を決めた主な目的は、サウジアラビアにこの計画に加わるよう説得することだった。同年10月、国務長官のヘンリー・キッシンジャーはサウジアラビア王子と話し合い、最終的に世界経済と米国にとって極めて重要な協議を結んだ。

   協議では、米軍はサウジアラビアに軍事保護と先進的な武器装備を提供することを約束したが、それには二つの前提があった。一つ目は、サウジアラビアは必ず米ドルを石油交易の唯一の定価と決済の通貨にすること、二つ目は、サウジアラビアは石油の余剰収益を米国の国債に投資することだ。

   サウジアラビアは当然そのようにするつもりであった。石油が安全と米ドルに替わり、更に世界最大の経済国に投資でき、武器などを購入して中東の駆け引きの手札まで増やせるのだから、そうしない理由はなかった。

   そして一部の「オイルダラー」は米国へ流れ、財政赤字を補填し、経常収支の輸入超過と資本収支の輸出超過のバランスを取り、米国経済を安定させた。

   サウジアラビアという産油大国の地位を借りて、1975年までほぼ全てのOPEC加入国はサウジアラビアのやり方の真似をし、石油と米ドルをリンクさせた。

   米国の望みどおり、世界の原油交易はここに至って米ドルと切り離せなくなり、巨額の石油貿易は安定した資本流動のクローズドループを支え、国際金融における米ドルの覇権はもはや揺るぎないものになった。

   石油は黄金の代わりとなって、米ドルが世界通貨の道をますます安定して走る信用書となった。

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