約80年前に吉野源三郎さんが書いた『君たちはどう生きるか』が売れ続けている。漫画版は200万部を超え、岩波文庫版も累計で130万部を超えるなど活字本も好調だ。
吉野さんは1899年生まれ。一高、東大卒。曲折を経て作家の山本有三さんが中心になって発行された『日本少国民文庫』の編集主任になり、1937年に自ら『君たち・・・』を書いた。その年に岩波書店に入り、岩波新書の創刊に携わる。戦後の45年12月には総合雑誌『世界』を創刊、長く編集長を務めた。内外の学者・文化人と幅広く交友し、戦後の反戦・平和の潮流づくりに深く関わるなど「一編集者」の枠を超えて「時代の良心」を体現し続けた希有な出版人だった。
81年に82歳で亡くなったが、自伝は残さなかった。吉野さんはどんな人だったのか。岩波書店の後輩で、前社長の山口昭男さんに吉野さんの思い出などを聞いた。
常に枕元にメモ用紙と鉛筆を置いておく
――山口さんは1973年の入社ですが、そのころ吉野さんは?
山口 編集顧問でした。週に一回ぐらい顧問室に来られていたので、すぐにご挨拶に行きました。今度入社しました山口です、『世界』の編集部の配属ですと。
――どんなお話を。
山口 頑張りなさいと言われ、いろいろお話をしました。一番印象に残っているのは、「24時間ジャーナリストたれ」と言われたことです。
――24時間、ですか?
山口 そうなんです。どういうことかというと、常に枕元にメモ用紙と鉛筆を置いておくわけです。夜中に不意に何かを思いつくことがある。そのとき必ず、メモしておきなさいと。電気をつけなくても、とにかくメモ用紙に書いておきなさいと言われました。なぐりがきでもいい、朝になってメモを見た時に、一字だけでも読めると、何を書いたか思い出すことができる。夢と同じで何も書いてないと、絶対に思い出せない。それが「24時間ジャーナリスト」ということだといわれました。
――入社された年の夏に金大中拉致事件が起きました。
山口 そのころ、吉野さんを『世界』の編集部に招いて、これからどうなるだろうかというようなことを伺った記憶があります。そのとき、「どうなるか」ではなく「どうするか」だと諭されました。「どうするか」を考えるのが『世界』の仕事だと。