3月27日(2018年)に佐川宣寿・前国税庁長官の国会証人喚問が決まった。決裁文書書き換え問題で一歩前進だが、なかなか全容解明はしないだろう。捜査中を理由に多くの証言を拒むことが予想される。低い確率だが、天下り斡旋も期待できないので、文科省の前川氏のように反安倍を打ち出したり、忖度を示唆したり(否定しない)こともありえる。
いずれにしても、強制捜査がないと、佐川氏が誰に指示したのかなどの実態解明はできないだろう。逆にいえば、強制捜査であればあっという間に片付くかもしれない。国会証人喚問後、地検が任意で事情聴取するので、それを待ってもいい。佐川氏への告発も昨17年11月に受理されているので、そろそろ地検も起訴するかどうかの判断を迫られている。
予算査定権、国税調査権というアメとムチをもつ財務キャリア
この問題に対するマスコミ論調は余りに平凡だ。佐川氏が政治家(官邸)からの指示を受けたか、忖度したかで、決裁文書書き換えをしたというストーリーだ。
国会で野党がこの論法で行くのは、佐川氏個人の責任ではなく、安倍政権全体の責任にまで広げたい思惑だ。このときの常套句が、「佐川氏の一存で書き換えられるはずがない」である。
これは的外れだ。例の決裁文書のありかを知っているのは、近畿財務局である。本省理財局の一部の職員も、近畿財務局から聞いている、せいぜい15人程である。その人であれば、自分で書き換えるか、指示して書き換えるかはできる。もっともその痕跡は後で述べるように残るので、いずれ発覚する。
政治家(官邸)の指示となるとまずない。というのは、近畿財務局で決裁文書があるのは、政治家では知らないだろう。知らないものは指示できない。
そこで、佐川氏の政治家への忖度という話になる。忖度はあくまで個人の内面なので外からは分からない。まして忖度されている政治家にも分からないが、こういうことも予想できないのかと政治家を叩くことはできる。そこで、道義的・政治的な責任を追及するのだ。
筆者としては、元財務キャリア官僚として、予算査定権、国税調査権というアメとムチをもつ財務キャリアには、政治家への忖度はまずありえないと思う。