転機となった「裏切り」 野中広務さんの「政治と差別」

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   2018年1月26日に92歳で亡くなった元官房長官の野中広務さんは、近年、政権中枢を担った保守政治家の中ではとびぬけて重たい人生経験の持ち主だった。

   戦争末期に召集され、軍隊生活を送っただけではない。身をもって「被差別」を知り、もがき苦しんだ過去があった。

  • 魚住昭さん『野中広務 差別と権力』 (講談社文庫・画像はAmazonより)
    魚住昭さん『野中広務 差別と権力』 (講談社文庫・画像はAmazonより)
  • 魚住昭さん『野中広務 差別と権力』 (講談社文庫・画像はAmazonより)

「差別体験」を赤裸々に語る

   元共同通信記者、魚住昭さんは2004年、『野中広務 差別と権力』(講談社)を出版、野中さんの波乱に満ちた人生に切り込んだ。当時、しぶしぶ取材に応じた野中さんは「話をするのはいいけれど、雑誌に書かれるのは迷惑な話なんで、死んでからにしてください」と、良い顔をしなかった。

   だが、政界引退後の09年に人材育成コンサルタント、辛淑玉さんと共著で出した『差別と日本人』(角川書店)では、もう吹っ切れたのか、自らの「被差別体験」を赤裸々に語っている。

   忘れようにも忘れられない「事件」が起きたのは25歳のころだ。野中さんは大阪鉄道局に勤めていた。抜群に仕事ができて、破格の出世をしつつあった。そんなとき、会議室の付近で偶然、野中さんの出世をねたむ先輩と、自分の中学の後輩とのこんな会話を耳にした。

「なんであいつだけ特待生みたいに昇給するんだ」
「野中さんは大阪におったら飛ぶ鳥落とす勢いだけど、地元に帰ったら部落の人だ」

   この後輩には特に目をかけ、可愛がっていた。働きながら夜間大学に通える手だてもしてやった。にもかかわらず、こんな形で裏切られるとは・・・。下宿に走って帰って4日間ぐらい七転八倒した。そこで出した結論は「自分の出自を知ってくれている場所に帰って、そこから人生をやり直してみよう」だった。

   戦争中、高知の陸軍部隊で本土決戦に備えていた野中さんは、敗戦を知って仲間とともに坂本龍馬像の前で自決を図ろうとしたことがある。気づいた上官に殴られ、「死ぬ勇気があるんなら、日本の再興のためにがんばれ」と諭された。あれから5年、2度目の「再出発」だった。

いくつかの「原体験」

   野中さんの実家は、地域では数少なかった自作農。父は保護司などもしていて、地元では信頼された人だった。長男ということで、旧制中学まで進むこともできた。帰郷した野中さんは青年団活動などに専心して、政治の道を志す。

   町議4年目の1955年に結婚した。婚約のとき、妻になる人に「言うておかなければならないことがある」と切り出した。「それは僕が部落の出身者だということだ」。妻は、「私が理解しておればいいことです。親や兄弟まで了解を得なければいけない話ではありません」と答えた。

   『差別と日本人』では、「部落問題」のほかにもいくつかの「原体験」を記している。

   ・戦時中、実家の近くに大阪の造兵廠が移ってきた。そこでは朝鮮半島から連行されてきた朝鮮人がたくさん働かされていた。小さなバラックに住み、日本人にムチで叩かれたり、重い荷物を運ばされたりして、ひどい目に遭わされていた。

   ・私の五人の弟妹は、朝鮮人の女性に子守りされた。これは私の親の考えである。在日朝鮮人の人といっしょにご飯を食べたり、いっしょに寝たりもした。

   ・71年、まだ日中国交正常化の前に、最初の訪中をした。そのとき、同行した後援者の1人が南京の雑踏で倒れて起き上がれなくなった。聞けば彼は、南京事変に参加していたという。上官の命令に逆らえず、何の罪もない女性や子ども百数十人を殺した。その忌まわしい記憶が現地で甦り、倒れてしまったのである。

   ・僕らが聞いてきたのは、兵隊から帰ってきた連中が自慢たらたら言っていたこと。ベニヤ板で造ったような箱物の中に女性が一人寝かされておって、そこにふんどし一丁の男が五十人も六十人も順番待ちしている。

   ・62年、初めて沖縄を訪れたとき、タクシーの運転手がいきなり車を止め、「あのサトウキビ畑のあぜ道で私の妹は殺された。アメリカ軍に、ではないです」と言った。

   こうした体験を紹介しながら、結論づける。

「ともかくね、先の戦争で日本がやってきたことに対して・・・罪の意識がない日本人というのは、これは非常に後世のためによくないことだと思っておるわけでね」

連立政権時代の調停者

   だからといって野中さんは、単純ではなかった。部落問題ではむしろ、様々な「特権的」な同和対策事業に手厳しく、その一掃のために尽力した。

   自民党の幹事長代理時代に、南京の「抗日大虐殺記念館」を訪れたときは、「虐殺者30万人」という不確かな数字が壁面に記されていることを知って、献花はしないと申し出た。官房長官の時代には、国旗国歌法を成立させた。一方で、従軍慰安婦問題では、政府の基金づくりに努力する一人に加わった。

   一筋縄では理解しにくい政治家――『差別と権力』で著者の魚住昭氏は、「部落から求められる役割と部落外から求められる役割。相反する二つの要請に応えながら、野中は双方の支持を取り付けてきた・・・二つの顔を使い分けながら『調停者』の役割を演じてきたといってもいい」と分析。90年代、連立政権の時代に、利益の異なる集団の境界線上に身を置きながら、きわめてタフな調停者として権力の階段を上っていったと見る。

「最後の発言」で怒り爆発

   だが、政治家人生の最後に「怒り」がストレートに爆発した。

   2003年9月21日、引退直前の自民党総務会。野中さんは「私の最後の発言」と断って話し始めた。

「総理大臣に予定されておる麻生総務会長。あなたは(グループの)大勇会の会合で『野中のような部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを私は、大勇会の3人のメンバーに確認しました・・・私は絶対に許さん!」

   激しい言葉に総務会の空気は凍りついたという。(『差別と権力』より)

   「部落出身者であってもまじめに真剣に働け。それでもなお差別されたら、その時は立ち上がれ」――野中さんは『差別と日本人』で「私はこんな信念を持っている」と書いていた。

「この国の歴史で被差別部落出身の事実を隠さずに政治活動を行い、権力の中枢までたどり着いた人間は野中しかいない」(魚住昭『差別と権力』)
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