連立政権時代の調停者
だからといって野中さんは、単純ではなかった。部落問題ではむしろ、様々な「特権的」な同和対策事業に手厳しく、その一掃のために尽力した。
自民党の幹事長代理時代に、南京の「抗日大虐殺記念館」を訪れたときは、「虐殺者30万人」という不確かな数字が壁面に記されていることを知って、献花はしないと申し出た。官房長官の時代には、国旗国歌法を成立させた。一方で、従軍慰安婦問題では、政府の基金づくりに努力する一人に加わった。
一筋縄では理解しにくい政治家――『差別と権力』で著者の魚住昭氏は、「部落から求められる役割と部落外から求められる役割。相反する二つの要請に応えながら、野中は双方の支持を取り付けてきた・・・二つの顔を使い分けながら『調停者』の役割を演じてきたといってもいい」と分析。90年代、連立政権の時代に、利益の異なる集団の境界線上に身を置きながら、きわめてタフな調停者として権力の階段を上っていったと見る。