いくつかの「原体験」
野中さんの実家は、地域では数少なかった自作農。父は保護司などもしていて、地元では信頼された人だった。長男ということで、旧制中学まで進むこともできた。帰郷した野中さんは青年団活動などに専心して、政治の道を志す。
町議4年目の1955年に結婚した。婚約のとき、妻になる人に「言うておかなければならないことがある」と切り出した。「それは僕が部落の出身者だということだ」。妻は、「私が理解しておればいいことです。親や兄弟まで了解を得なければいけない話ではありません」と答えた。
『差別と日本人』では、「部落問題」のほかにもいくつかの「原体験」を記している。
・戦時中、実家の近くに大阪の造兵廠が移ってきた。そこでは朝鮮半島から連行されてきた朝鮮人がたくさん働かされていた。小さなバラックに住み、日本人にムチで叩かれたり、重い荷物を運ばされたりして、ひどい目に遭わされていた。
・私の五人の弟妹は、朝鮮人の女性に子守りされた。これは私の親の考えである。在日朝鮮人の人といっしょにご飯を食べたり、いっしょに寝たりもした。
・71年、まだ日中国交正常化の前に、最初の訪中をした。そのとき、同行した後援者の1人が南京の雑踏で倒れて起き上がれなくなった。聞けば彼は、南京事変に参加していたという。上官の命令に逆らえず、何の罪もない女性や子ども百数十人を殺した。その忌まわしい記憶が現地で甦り、倒れてしまったのである。
・僕らが聞いてきたのは、兵隊から帰ってきた連中が自慢たらたら言っていたこと。ベニヤ板で造ったような箱物の中に女性が一人寝かされておって、そこにふんどし一丁の男が五十人も六十人も順番待ちしている。
・62年、初めて沖縄を訪れたとき、タクシーの運転手がいきなり車を止め、「あのサトウキビ畑のあぜ道で私の妹は殺された。アメリカ軍に、ではないです」と言った。
こうした体験を紹介しながら、結論づける。
「ともかくね、先の戦争で日本がやってきたことに対して・・・罪の意識がない日本人というのは、これは非常に後世のためによくないことだと思っておるわけでね」