野中広務さん死去、92歳 「影の総理」と言われた自民元重鎮

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   内閣官房長官や自由民主党幹事長など政府や与党の要職を歴任し、政界の実力者として知られた野中広務(のなか・ひろむ)さんが2018年1月26日、死去した。92歳だった。NHKやTBSなどが同日、報じた。

   中央政界に進出したのは50代後半になってからだったが、短期間に力をつけて永田町を牛耳り、一時は「影の総理」とも言われた。戦争体験者として「戦争責任」を問い続け、2003年に政界を引退したあとも折に触れマスコミに登場、「憲法9条だけは守ってほしい」と話していた。

  • 野中広務さん(右)が亡くなった(画像は角川新書の「差別と日本人」)
    野中広務さん(右)が亡くなった(画像は角川新書の「差別と日本人」)
  • 野中広務さん(右)が亡くなった(画像は角川新書の「差別と日本人」)

官房長官や自民党の幹事長を歴任

   1925年生まれ。京都府出身。旧制園部中学卒業後、大阪鉄道局に勤めたが、召集され、高知の陸軍の部隊へ。約半年で終戦。復員して再び大阪鉄道局に。25歳の時、地元に戻り、青年団活動などに参加。町議、町長、府議会議員のあと、副知事も務めた。

   83年、旧京都2区の衆議院補選で当選、57歳で代議士になった。田中角栄氏、竹下登氏とは若いころから面識があり、旧田中派、経世会に属した。

   93年、非自民・非共産連立による細川護熙政権が誕生。自民党は野党に転落したが、亀井静香代議士らと共に、細川内閣を倒して94年、自社さ連立の村山富市内閣を実現させるために尽力、短期間で自民党を政権与党に復帰させる。自治大臣・国家公安委員長として初入閣し、「首相の後ろ盾」として存在感を高めた。95年、自民党副幹事長、98年、小渕恵三内閣で官房長官、2000年の森喜朗内閣では党幹事長として辣腕をふるった。

   旧経世会の小沢一郎氏とは同じ派閥にもかかわらず険悪な間柄だったが、官房長官の時代に、小沢氏が率いる自由党と自民党との自自連立に関わった。さらに公明党を引き込む自自公連立への道筋をつけ、のちの自公政権につながる安定政権づくりに奔走した。

   しかし、01年の小泉純一郎内閣では主流から外れ、郵政民営化などでも対立、「守旧派」として批判される側になり、03年、議員を引退した。

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