現役時代にプロ野球・中日ドラゴンズのエースとして活躍し、監督として東北楽天ゴールデンイーグルスを日本一に導いた星野仙一さんが2018年1月4日に死去した。70歳だった。楽天が球団公式サイトで6日に発表した。
闘志をむき出しにして打者に投げ込むプレースタイルから、「燃える男」、監督時代は「闘将」と呼ばれた。日本のプロ野球をけん引してきた男がまたひとり、旅立った。
監督として4度のリーグ優勝、2013年に初の日本一
球団発表によると、星野さんは2016年7月に急性すい炎を発症したのをきっかけに、すい臓がんが判明した。昨年11月に野球殿堂入りを果たし、祝賀会では元気な姿を見せていたが翌12月に病状が悪化。「最期は昼寝でもしているような安らかな表情でご家族に看取られて旅立たれました」という。
1968年、明治大学からドラフト1位で中日に入団。当時「常勝軍団」だった読売ジャイアンツに対して「打倒巨人」を掲げ、真っ向から立ち向かう投球スタイルだった。74年には巨人の「V10」を阻止してリーグ優勝に貢献し、自らも沢村賞を受賞。82年に現役引退するまで、通算146勝を挙げた。87年に中日の監督に就任すると、翌88年にリーグ優勝。91年に一度退くが、96年から再度中日の監督を務め99年に2度目のセ・リーグ制覇を達成した。2001年のシーズン終了後、当時不振にあえいでいた阪神タイガースの監督就任を発表し、世間を驚かせた。「勝ちたいんや」と強く勝利にこだわるスタイルで、03年にはリーグ優勝を果たした。
08年の北京五輪では日本代表監督として4位。2011年、3球団目となる楽天に監督として招かれた。13年には田中将大投手(現ニューヨーク・ヤンキース)や則本昂大投手らの活躍でパ・リーグを制し、日本シリーズでも巨人を破って球団史上初、自身も初めて日本一の栄冠を手にした。14年シーズン後に楽天のユニホームを脱ぎ、球団の取締役副会長として活動していた。
震災後にチーム優勝「勇気づけられた」
常に熱いファイトを見せ続けた星野さんの訃報に、球界からはその死を悼む声が続々と寄せられている。星野監督の下で日本一に輝いた田中将大投手は6日、ツイッターに、
「あまりに突然のことで信じられません。楽天イーグルスで日本一になり、星野監督を胴上げできたことは、僕の野球人生の大切な思い出です。メジャーでプレーすることを応援してくださいましたし、感謝の気持ちでいっぱいです。心よりご冥福をお祈りいたします」
と投稿。楽天の梨田昌孝監督は「東北楽天ゴールデンイーグルスの精神的支柱でした」、嶋基宏捕手は「監督から教えていただいた『闘う姿勢』を忘れず、今年こそ東北を熱くします」、則本投手は「星野さんがいなければ、今の僕はないので、感謝しかありません」と、それぞれ球団公式サイトを通してコメントを出した。また昨シーズン、ルーキーながら中継ぎで活躍した菅原秀投手は、1月6日に千葉県の幕張メッセで行われたイベントの席で、
「最後にお会いしたのは11月の倉敷のキャンプ。『今年(2017年)はよくがんばってくれた。来年も頑張ってほしい』と声をかけてもらった。今年は星野さんの思いも背負って、天国の星野さんに届くように頑張りたい」
と、うつむきながら話した。
星野さんが現役、監督時代を過ごした名古屋市や仙台市では、新聞の号外が配られた。東日本大震災が起きた2011年に星野さんが楽天の監督に就任し、13年にチームを日本一に導いたことから、仙台市民からの「勇気づけられた」「感動した」といった感謝の言葉がテレビのニュース番組で流れていた。