野村克也氏が、ヤクルトの監督時代に特別に目をかけながら選手生命に関わる故障の責任を感じ続ける「投手」に、25年越しに謝罪した。2018年1月3日放送の「消えた天才 一流アスリートが勝てなかった人 大追跡」(TBS系)で、長年の時を超えて顔を合わせた。
謝罪の相手は伊藤智仁氏。野村氏が松井秀喜氏以上に才能を買い、「天才」と褒めたたえた投手だったが――。
「稲尾(和久)か伊藤智仁か」
1992年のドラフト会議、首脳陣が1位指名を「松井秀喜」一択とする中で、監督の野村氏だけは「伊藤智仁」を選ぶとして譲らず、スカウトとケンカの末に伊藤を獲得した。番組で「稲尾(和久)か伊藤智仁か。こういうのを天才という」と当時を振り返った。
伊藤氏はルーキーの93年、並外れたスライダーを武器に1試合16奪三振のセ・リーグ記録をつくるなど三振の山を築いた。2か月半で防御率は驚異の0.91だった。
だがシーズン中盤、すっぽ抜けた1球が端緒で肘を故障。現在の先発投手より1.5倍ほど多い球数を投げていたのが祟ったとされる。痛みを抱えながらも野村氏はこの試合、続投を指示していた。
伊藤氏は番組で「リリースの瞬間に肘に電気が走ったような。表現できないけど、痛いという感覚よりも違和感」と当時の故障を振り返った。「ルーキーなので信頼されないといけない。実績を作らないといけない。少し休めばまた投げられる」と考えていたという。だが後に、腕に力が入らなくなり「血行障害」が発覚。医者からは死の危険性も指摘されたという。
手術とリハビリの末に97年、伊藤氏は7勝2敗19Sで「カムバック賞」を受賞したが、その後は再度手術とリハビリの日々。最速150キロ超だった直球は、03年の2軍戦で109キロに減速し、同年引退した。
野村氏はルーキーイヤーに酷使し続けたことを後悔しているとし、約25年越しの「謝罪」を決意。現在、独立リーグで監督をつとめる伊藤氏と、ヤクルトの2軍球場ベンチで顔を合わせた。
伊藤氏「誰や...監督?監督やな」
「伊藤が『肘が』と言った時に、『責任は俺かな』とすごく思っていた。使いすぎたかな、すごく申し訳ないなと。それだけは謝りたい。間違いなく俺以外の監督の下なら、記録は絶対に残しているよ。俺が邪魔したみたいだ。申し訳ない」(野村氏)
隣で口を真一文字に結んで聞いていた伊藤氏から出たのは「僕は自分の責任だと思っています。そういう風に思ってほしくないです」という言葉だった。
「僕はあそこで代えられたら嫌でした。マウンドを降りるほうが嫌でした。投手は先発したら完投するのが当たり前です。何球投げようが関係ないです。先発として最後まで投げるのが使命だと思います。何とも思っていませんよ、監督」(伊藤氏)
微笑む伊藤氏に野村氏は「いやいや、それは、ありがたいけど」と口ごもった。伊藤氏は野村氏と会う前、番組に「ケガを恐れてやったことはない。打たれるくらいだったら腕がちぎれても投げたいと思っていた。そこはまったく後悔せずに前を向いていきたい」とも話していた。
厳格な野村氏が謝罪を口にしたことにツイッター上では反響が殺到し、
「ノムさんがここまで本人の前で言うか・・・」
「重たい。ずっと十字架背負ってたんだな。きっと監督のせいにした時間もあったかもしれないけど、今この言葉が聞けて野村監督もよかったね」
「野村監督、25年間酷使させたと心の奥にずっと責任を感じていたんですね」
といったことが投稿された。
番組で伊藤氏は、球場に入るまで野村と会うことを知らされていなかった。ベンチに座る野村氏を遠目で確認した瞬間、「誰や...監督?監督やな」と驚き、スタッフに「言うといてくれよ」と笑った。この自然と出た「監督」の言葉に、
「伊藤智仁が25年を経ていまだにノムさんのことを『監督』って呼ぶのは泣ける」
「何年経ってもノムさんのことを監督って呼ぶのね」
「伊藤がノムさんに気付いた瞬間、監督、と呟くのがいい。長い時間を経ても関係はそのままというか」
といった反響も相次いでいた。