ソニーでCD開発に携わった中島平太郎(なかじま・へいたろう)さんが亡くなった。中島さんが代表を務めていたNHラボ(東京都世田谷区)の公式ホームページで2017年12月13日に発表された。新聞大手各紙によると、9日に96歳で心不全により亡くなったという。
ネット上では死を悼む声もありながら、CDが登場した時代を懐古する声が多数あがっている。
1993年にはCD開発の功績で紫綬褒章も
中島さんは1921年福岡県久留米市に生まれ、東京工業大学卒業後、九州大学大学院で音響学を学んだ。その後、47年に入局したNHKで音響の研究を深め、71年にソニーに入社。技術研究所の所長、音響事務部長などを歴任し、CDの開発に尽力した。
ソニーの公式ホームページによると、中島さんは音質改善のための「音のデジタル化」の技術を日本では先駆けて開発したとされる。その音のデジタル化の技術を活用しながら、オランダの電機メーカーであるフィリップスとともに79年8月からCDの開発を行った。82年10月1日にはCDプレイヤーの商品化にも成功し、日本のCD開発をけん引した。
その後、83年にはアイワに転じ、社長に就任。92年には日本オーディオ協会の会長となり、翌93年にはCD開発の功績が認められ、紫綬褒章を受章した。
「初めてCDで音楽を聴いた時の驚愕は忘れられない」
中島さんの訃報を受けて、ネット上では、
「社会の、というより人類の一つの発展を創った人だったな」
「この方がいたからこそ高音質でCDが聴ける・・・感謝」
「CDが今日のデジタル化への道を開いたわけで、その業績は計り知れないです。日本の技術者は本当に優秀。合掌」
と、死を悼む声や、その功績を称えるひとが多く見られる。ほかにも、
「最初、CD出た時は衝撃だったなぁ」
「初めてCDで音楽を聴いた時の驚愕は忘れられない!リードソロモン符号とか勉強したなぁ~」
「今では信じられないと思うが、80年代後半の音楽ファンはデカくて黒くてダサいアナログレコードに飽き飽きしていました。当時小さな銀盤CDの登場は本当に福音」
と、CDが登場した時代に思いを馳せ、思い出を語るひとも見られた。