「フォロワー5人ぐらい」のまま放置していたツイッターアカウントに、突如2000人近くの新規フォロワーが押し寄せた。「通知設定変えてなかったんで、メールが『ごーっ』と来て」。ガラケー片手に、関西弁で笑うのは、ジャーナリスト・横田増生さんだ。
ユニクロへの「潜入記」第1回が、週刊文春(2016年12月8日号)に掲載され、一躍時の人となった直後の話である。思わぬ反響に、「ナニゴトや!?」。
あのルポが2017年10月27日、『ユニクロ潜入一年』(文藝春秋)のタイトルで単行本化された。「潜入」の裏側、そして今後への思いは。J-CASTニュース編集部は横田さんにインタビューを行った。
この日のコーディネートは「靴以外ユニクロ」
待ち合わせ場所として指定されたのは、新宿駅前。2016年10月~12月にかけて働いた「ビックロ」の目と鼻の先。そして、現れた横田さんの出で立ちは、カジュアルな茶色のブルゾンに、青のジーンズ。「靴以外ユニクロ」で、しかも最新モデルである。
――改めて、「ユニクロ潜入一年」の反響は凄かったですね。第1回が掲載された直後には、ツイッターで「ユニクロ」がトレンド入りするなど、幅広い注目を集めました。
横田増生さん(以下、敬称略) 反響が大きすぎて、僕自身がびっくりしました。潜入取材って、10年以上前からやっているし、今までと違ったことをしているつもりはなかったんですが。
思うに、一つは文春が「右トップ」、つまりトップニュースとして取り上げてくれたこと。そしてもう一つは、電通の高橋まつりさんの事件があって、「働き方改革」がクローズアップされたタイミングだったこと。その2つが大きかったのではないでしょうか。
横田さんは謙遜する。しかし、かつて自著『ユニクロ帝国の光と影』(2011年、文藝春秋)に裁判まで起こしてきた相手に(14年、最高裁でユニクロ側の敗訴が確定)、自ら従業員として潜り込み、3店で1年にわたって実際に働く、そのために戸籍上の本名まで変え、しかも第1回掲載時点でまだ勤務中(第2回で「クビ」の一部始終が描かれる)――普段ノンフィクションを読まないような層にまで、その話題が広まったのも無理はない。
――中でも潜入のため、いったん離婚し、再婚して奥さまの名字に変えることで「改名」したというくだりには驚かされました。
横田 他の企業ならとにかく、裁判してたんで、名前変えずにというのはちょっと無理かなと思ったんですよ。「横田増生」という名前で、気づく人は気づくと思うし。 実際やってみると1カ月くらいかかりましたが、手続き自体は難しくない。法律的にも違反じゃないんで、記者さんも将来潜入取材するときは。
――......覚えておきます。それにしても、奥さまの反応は?
横田 彼女はこういうことをすごく面白がってくれる人で、離婚届も彼女が取って来てくれて。「婿養子」に入るような恰好なので、妻の実家にも相談したんですが、「ああ、どうぞどうぞ」と快く応援してもらいました。
――他にも、取材に当たって準備されたものなどはありますか?
横田 いつ録音が必要になるかわからないので、ユニクロに着て行くカットソーはすべて、胸ポケットのところに裏側から切り口を入れて、こうやって(実際に身振り手振りを交えながら)ピンマイクを挿せるようにしておきました。1枚上に着ていたら、もうわからないでしょ? 他にもペン型マイクとか、変な道具もずいぶん集めました。
あとは、ノートを細かく取る。たとえば「奴隷の仕事だよ。奴隷の!」なんて発言があったら(本書に登場するある男性社員の言葉)、「よし!」と。仕事についてメモするふりをしながら、すぐに書き込んでいました。
弁護士からのアドバイスもあり、時系列順につけておいたおよそ30冊のメモは、今もしっかり保存している。なお、「本名」の書かれたユニクロの名札も見せてもらったが、その名前は「伏せておいてください。今後も使うかもしれませんから」。
「潜入」後、柳井社長に取材を申し込んだ
潜入取材の目的は、ユニクロの労働環境の実態を探ることだ。横田さんも勤務3カ月ほどで、体重が10キロも落ちた。中でも、年に一度の「感謝祭」セールでの激闘は、本書のクライマックスである。店舗での潜入取材だけではなく、下請け工場のある中国、そしてカンボジアにまで足を運び、関係者の生の声を拾い続けた。
一方、横田さんは取材だからと言って手を抜くことなく、(柳井正社長の「お言葉」に内心ツッコミを入れながら)一従業員として懸命に働き続ける。その姿は、どこかユーモラスでさえある。
――本書を読んでクスリとしたのが、「もらった金額以上の働きをする」がモットーの横田さんが、自分から売り場のアイデアを出すなど、熱心な仕事ぶりを見せる場面の数々でした。ある意味で「理想的なユニクロ従業員」だったのでは。
横田 「1000円もらったら、1500円分働こう」って、身に染みついてるところがあって。自慢話になるので書かなかったんですが、初めに働いた幕張新都心店の途中面接で、店長が「マスオさん(横田さんの店での呼び名)を採って本当に良かった」みたいなことを言うんです。ああ、この人も裏切ることになるのか、辛いなと思いながら、「ありがとうございます」。
そもそも、潜入取材だからといって、仕事の部分で手を抜いたら面白くないと思うんですよ。鎌田慧さんの『自動車絶望工場』(1973年刊。自動車工場での過酷な労働を描いた潜入ルポ)にしても、6カ月間季節工として、手の感覚がおかしくなるまで働く。だからこそ読者も共感できるし、でないと「真面目に働け!」ってツッコミ入れたくなりませんか。
上記の感謝祭でも、担当しているレジでミスを犯さない、という目標を立て、大量の客をさばき続けた。しかし、「潜入一年」第1回の〆切とも重なる過酷な日程で、あれこれ注文の多い女性客相手にとうとう、専用アプリを持っているかを聞き忘れる「痛恨のレジミス」が。「それがなければ5日間ノーエラーで行けたのに」と冗談めかして語るが、ちょっと本気で悔しそうだ。
――「クビ」になった後、ユニクロ側から接触はありましたか。
横田 ないですね。とはいえ、『ユニクロ帝国の光と影』も、本になって2カ月くらいしてから訴えられたので、どうなることやら。
こちらからは、書籍化にあたって8月に柳井さんへの取材を申し込みました。返事は、「できません」。10月の決算発表会見も申し込みましたが、「会社の規則でダメです」と。そんなことするから、『物語』が始まるのに......(今回の「潜入」は、2015年の中間決算発表会見への参加を、ユニクロ側が直前になって拒否したことがきっかけ)。
横田さんは『ユニクロ帝国の光と影』執筆の際、柳井社長にインタビューしたものの、以後は直接取材が叶っていない。「柳井さん、一対一で話し合おうよ。日本一忙しい経営者かもしれんけど、僕もそんなに暇じゃないのに1年働いたんだから。2時間、いや1時間くらい付き合ってもいいんちゃう」。
潜入ルポを始めたきっかけは?
ジャーナリストの道を志したのは、英文学を専攻していた大学生時代だという。本多勝一さんの『カナダ=エスキモー』、『ニューギニア高地人』、『アラビア遊牧民』3部作をはじめとするノンフィクション作品と出会い、世界が「1冊1冊違う」新鮮さに「こんな本を書いてみたい」。
新聞記者を目指したが就職に失敗し、英語講師をしつつ奨学金で渡米、大学院でジャーナリズムを学ぶ。ところが帰国すると、今度は大手紙では年齢制限に引っかかってしまった。そこで入社したのが、物流系の業界紙「輸送経済」だ。3年ほどで編集長にも昇進した。
横田 ただ業界紙は、読んでる人も、スポンサーも、取材先もみんな業界の人。タブーだらけで、書いていいことが限られるんです。たとえばある区間の具体的な運賃を書くと、「営業妨害だ!」。記事公開の直前になって、「取材していいとは言ったが、記事を書いていいとは言ってない」。そんなムチャ言うヤツがいっぱいいるんですよ。
そんな中でも、「タブーに挑戦する」というやり方を学んだのは良かったんですが、いつも同じ話、いつも同じ取材先。「俺がやりたいのはこれじゃないぞ」とフリーになりました。
時に30代半ば。第2作『アマゾン・ドット・コムの光と影』(情報センター出版局、2005年)で、当時急速に台頭していたAmazonの物流倉庫に潜入取材を行い、話題を呼んだ。これが、『仁義なき宅配 ヤマトVS佐川VS日本郵便VSアマゾン』(小学館、2015年)、そして今回のユニクロ潜入などへとつながっていく。
横田 「潜入ルポの先駆者になろう」とか、別にそういう深い考えはなかったんです。家と近かったし、仕事も「ヒマ」だったのでいいか、と。閉鎖的だったAmazonの内側、そして「格差社会」の縮図を書けたことが、今思えば評価されたのかな。
潜入取材も当時は、かなりビクビクしながらやっていたのですが、今ではどのくらいまでならバレないか、など、だいたいわかるんですよ。「顔バレ」にしても、僕もテレビにちょっと出たりするけれど、それこそ帯番組に出演するくらいにならないと誰も気づかないものですね。
若手の「潜入」記者が10人もいれば
インタビューの終わりに、「ちょっと、僕の勝手な夢を喋ってもいいですか?」と横田さんが言う。
横田 日本に、若手で10人か20人くらい、プロの「潜入」記者がいたら面白いと思うんです。彼らがいつ、どこの企業に入ってくるかわからない。年に4、5冊くらい、そういう潜入モノの本が出る。そうなると、日本の社会もピリッとするんじゃないか。僕は年なので、ノウハウを引き継いでもらって。
昔から、潜入取材というジャンルは「一段下」に扱われてきたんですよ。『自動車絶望工場』も、大宅壮一ノンフィクション賞にノミネートされたけど、それを理由に受賞を逃している。でも、企業が情報を隠そう隠そうとしている今、広報をすり抜けて物事を、企業を、産業を見る潜入取材は、『自動車絶望工場』のころ以上に、悪くない方法だと思う。
フリーだと20代のころとか仕事がないですから、半年くらい面白いところを見つけて、潜入すればいいんです。もちろん、単に裏を覗くだけじゃなく、その産業や企業に対する調査・研究、そして働きながら記録を残し、それをまとめ上げる能力がいりますが。
一発名を上げたら、次の後進にノウハウを伝える。こうして、潜入取材というジャンルが脈々と書き継がれていく――そうなったら嬉しいなと。
たびたび名前が出た鎌田慧さんの『自動車絶望工場』の、本多勝一さんによる文庫版解説を読んでほしい、と横田さん。後日取り寄せると、こんな一文があった。
「ルポやノンフィクションの隆盛を反映してか、そのライターを志望する若者もふえているようです。しかしこれは決して甘い職業ではありません。安易なPRルポならともかく、妥協のない内容とするためには、経済的・精神的独立が何よりの前提です。とくにフリーの人にとってこれは厳しいものになりますが、そんなとき私がよく若い人にいうのは『鎌田慧方式』であります。取材を生活そのものとする方法。これは『体験取材』のみならず、何ものにも拘束されぬための経済的手段としても支えになるでしょう」(講談社文庫版解説より。初版は1983年)
この日は取材が危ぶまれるほどの悪天候だったが、インタビューを終えるころには、雲一つない青空となっていた。寄り道があるという横田さんは、お昼時の新宿の雑踏の中に去っていく。
行き先は、「ビックロ」とのことだった。