「記録的な大雨」。2017年の夏、この言葉がニュース番組で何度流れただろうか。全国各地で集中豪雨やゲリラ豪雨、迷走し続けた台風5号の影響で水害が多発した。
中でも甚大な被害が出たのが、「九州北部豪雨」に見舞われた福岡県朝倉市だ。7月5日午後から、次々と雨雲が発生する「線状降水帯」による大雨が長時間続き、市内の河川はあふれ出し、土砂崩れや流木で多数の家屋が損壊した。9月3日~4日に現地を歩いたJ-CASTニュース記者が見たのは、今も残る被災状況の厳しさだった。
山上から土石流・流木が家々を襲う
朝倉市役所から車で20分ほどの場所にある寺内ダムを通過し、さらに山あいの道を進む。九州北部豪雨で、1時間に80ミリの集中豪雨が9時間も続いた黒川地区だ。車窓からは生い茂る木々や川が見えるが、ところどころで山肌があらわになっており、土砂崩れでなぎ倒されたスギと、流された流木が折り重なっている。
気づくと、目の前の道が一瞬なくなっているように感じた。急角度の下り坂だ。これは仮設道路。従来使われていた舗装道路が濁流にえぐりとられて消滅したので、その横にひとまず道を通したのだ。
「ここ、何だったと思いますか」
車を降りると、案内してくれた地元の男性が指をさした。茶色く濁った水が流れる川の脇に、泥や石が積もった広大な河原が広がる。ところが「もともとこの一帯は全部、水田だったんですよ」と言われて目を疑った。上流からきた土砂で埋め尽くされてしまったのだ。よく見ると、難を逃れたイネが一部残っていた。男性によると、土石流のため川の流れも大きく変わったという。
黒川地区では7月5日の昼過ぎから激しい雨に見舞われた。同日17時51分、朝倉市に大雨特別警報、19時10分には市全域に避難指示が出された。その間も雨は降り続け、地域を流れる黒川など河川が氾濫。山の上から土石流や流木が、集落の家に襲いかかった。住民の女性に聞くと、水と流木が家の中に入り込んできて、窓からやっとの思いで逃げ出したと振り返る。幅1メートルほどの道すら激しい水の流れで渡るのが困難で、玄関の前にある細い側溝が「暴れ川」に姿を変えた。何とか近くの避難場所にのがれ、2日後に自衛隊のヘリコプターで安全な場所に移ることができたと話した。
出産を控えた母が1歳の子と里帰りした家が...
痛ましい犠牲もあった。黒川地区に住む男性によると7月5日の夜20時45分ごろ「とてつもない量の土石と流木が流れてきて」、北小路集落の一軒の家を直撃した。ここには、8月に出産を控えた女性が1歳の子と里帰りしており、母親と共にいた――。
記者は9月3日、泥だらけの道なき道を進んで現場に赴いた。山の上から押し流されてきたとみられる巨大な岩石がいくつも、目に入る。これらが木造住宅を破壊した2か月前の状態が、ほぼそのまま残されていた。家の前には、亡くなった3人を悼む小さな仮の「祭壇」が設けられていた。
地元の男性の案内でさらに歩を進めると、激しく壊れた砂防堰堤(砂防ダム)が見えた。豪雨による激しい土石流で、3つあった堰堤は決壊してしまったのだ。ここにも、直径5メートルはあろうかという岩があちこちに転がっており、その破壊力を物語っていた。
朝倉市消防団の第9分団長を務める林英次さん(50)は、7月5日は別の場所で仕事をしていたが、道路があちこちで冠水や通行止めとなったため自宅に戻れず、「分団長をしているので、いろいろ情報を集めようと思って」朝倉市役所の前で一夜を過ごした。翌6日朝、黒川地区の隣の佐田地区に向かい、団員と共に地元住民を避難させた。黒川には7日早朝、徒歩で入った。自衛隊の救助ヘリが来るため、その場所まで高齢者をおぶって連れて行く。
さらに山の上にある疣目(いぼめ)集落に行くことになった。その時点で誰も現地事情を把握していなかった。自衛隊員と団員で歩いて上っていくと、道はなくなり川沿いの家はすべて流されていた。息をのんだが、幸い住民は高台に避難しており、無事を確認して救援を要請したと話す。大変な豪雨だったが、日中だったため何とか避難が可能だったのは幸いだった。「これが夜間だったら身動きがとれず、家にとどまった人が多かったかもしれません」と林さん。
豪雨の影響で7月5日は通信手段が途絶え、現地の様子が全く分からず苦労したと振り返る。救援活動では安否確認のため、崩れた道を半日ほどかけて何キロも歩き回った。
本来、夏の黒川地区はホタルが楽しめる美しい場所だ。梨の名産地で、取材中に地元の女性が梨を箱詰めしているところに足を止めると、帰り際に記者に2個の梨を手土産に渡してくれた。一方で被害があまりにも大きかったため、破壊された住居やうずたかく積もった流木と手つかずの部分はいまだに多い。
「豪雨から2か月」。それは何の区切りにもなっていないことを、まざまざと思い知らされた。