「戦争のない状態が最高の公衆衛生」
専門の医学分野のみならず、多くの著作、講演、テレビ出演などで老若男女に広く名を知られた。雑誌「いきいき」の連載を01年にまとめた『生きかた上手』(ユーリーグ刊)は120万部以上を売り上げるミリオンセラーとなった。06年の『十歳のきみへ――九十五歳のわたしから』(冨山房インターナショナル)も好評で教科書にも採用された。絵本なども書いており、翻訳や共著も含めると200冊を超える著書がある。
長寿の秘密は食事。地中海の沿岸地方では心臓病が少ないことに着目し、毎朝スプーン1杯(15g)のオリーブオイルを飲んでいた。精神的な若さの秘訣は、何歳になっても「始めることを忘れない」。100歳近くになって『葉っぱのフレディ―いのちの旅―』のミュージカルを企画。俳句を始め、104歳で句集を出すなど好奇心は衰えしらずだった。
厚生労働省は75歳以上を後期高齢者と呼んでいるが、この呼び名は良くないので「新老人」にすべきだとして00年、「新老人の会」を立ちあげた。1人で新幹線に乗って、毎月のように各支部などで講演。03年からは、全国の小学校を訪れ、命の大切さや、いじめ防止などを訴える「いのちの授業」も開いていた。
戦争体験者として「二度と戦争を起こしてはならない」「戦争のない状態が最高の公衆衛生」がモットー。護憲派として「これほどしっかりとつくられた憲法は世の中のどこにもありません」と語り、現憲法の良さや平和の尊さも訴えていた。100歳台になっても毎週の朝日新聞コラム「あるがまゝ行く」も続け、平明な文章で日々の思いをつづっていた。
禅の鈴木大拙師ら多数の有名人を看取ったが、駆け出しのころ、初めて受け持った16歳の紡績工の少女の死が、医師としての原点になった。母子2人だけの貧しい家庭で、結核性腹膜炎が悪化して入院していたが、母は入院費や生活費を稼ぐ必要があり、付き添いができない。面会は2週間に一度ぐらい。病状が悪化して少女は死を悟り、日野原さんに向かって合掌する。「先生、母には心配をかけ続けて、申し訳なく思っていますので、先生からよろしく伝えてください」。直後に容体が急変した。あの時、「看護婦さん、注射、注射」と救命措置に奔走するよりも、そばにいて手を握って話をきいてあげることこそ、最期の時間を大切にすることではなかったか・・・。その思いがのちの、ホスピスづくり、終末期医療重視につながった。
医療の分野では様々な制度改革に粘り強く取り組んで成果を上げた功労者だった。「成人病」から「生活習慣病」への名称変更には約30年、臨床研修の必修化には約20年かかったという。しばしば「私の医師としての基礎は看護師が教えてくれた」「15年以上のキャリアを持った看護師と学校出たての医師と比べた場合、どちらが人を救う力があるか明白」と語り、医師不足への対応策として、能力と意欲がある看護師にさらに高度の教育を施し、医師業務の一部を分担してもらう新制度づくりを、熱心に訴え続けていた。