「日本は憲法を改正して、自分の国は自分で守るべきだ」
ニューヨークのセントラルパークで、たまたま同じピクニックテーブルに座った男性(38)は、そう主張した。
「トヨタよりフォードで働きたい」
彼はコロンビア大学で物理学を専攻し、放射線技師として大学の研究所で働いていたが、失業し、今は自動車修理工をしていると言った。
「友達はみんな、トヨタの車を持っているよ。僕の車はフォードだ。決まってるだろ。トヨタは絶対に買わない。できたら、フォードで働きたい。自動車の開発に関わりたいんだ。燃料にアルコールやピーナッツオイルを使うとかね。 トヨタの技術は素晴らしい。羨ましいくらいだ。フォードはトヨタとは競えない。50年後にはもう存在していないかもしれない。でも、トヨタは日本の会社だから、絶対に働かない。日本人というより、国としての日本が嫌いなんだ」。
理由を聞くと、子供の頃、彼をかわいがってくれた高齢の男性について話し始めた。
「その人が、『バターン死の行進』(Bataan Death March)の生存者だった。日本がアジアでどれだけひどいことをしてきたか、聞かされたよ」
第2次大戦中、フィリピンのバターン会戦で日本軍に投降したアメリカ軍・フィリピン軍の捕虜約8万人が、炎天下の過酷な状況で捕虜収容所まで歩かされ、多くの死者が出た。
捕虜の数が想定をはるかに超えたため、当初計画したようにトラックで移送できず、食糧や水も不足していた。すでに捕虜の多くが飢えやマラリア、赤痢で苦しんでおり、日本兵の暴行や残虐行為などもあって、収容所での死者を含むとその数は3万人ともいわれる。
当時の責任者は戦後、処刑され、岡田克也外相(当時)などが謝罪している。「バターン死の行進」がいかに残虐だったか、これまで何人ものアメリカ人が私に語った。
これに対し、「護衛の日本兵も歩き、多くが死んだ。長距離の徒歩での移動は日本兵にしてみれば常識で、捕虜を殺すつもりはなかった」、「捕虜になるのは恥と日本兵は教え込まれていたため、捕虜に対する人道的な意識に欠けていた」といった声がある。