富士ゼロックスに激震が走っている。海外販売子会社で恒常的な不適切会計が発覚し、会長や副社長らを退任させるという異例の事態に発展したのだ。同社のカリスマ経営者だった故小林陽太郎氏はかつてガバナンス改革を訴え、短期的な利益を追求する市場の風潮を批判した。今回の事態は、カリスマが作り上げた同社の企業精神が既に失われていることを示している。
親会社の富士フイルムホールディングス(HD)は2017年6月12日、富士ゼロックスの海外子会社で発生した不適切会計について、第三者委員会による調査報告書の概要と、今後の対応方針を発表した。ニュージーランドとオーストラリアの販売子会社で、複合機のリース取引をめぐり不適正な会計処理が行なわれ、損失額は過去6年間で累計375億円にのぼる――というものだった。
子会社の不正発覚後も「隠蔽体質」
背景には「売り上げ至上主義」のまん延があった。社員の報酬は売上高に連動。売り上げを前倒しで計上する動機付けとなった。社内資料には、売上高目標について「もう1丁(1兆)やるぞ」などという表現が記された。
子会社の取締役会も十分に機能していなかった。不正発覚後に親会社に事実関係を報告しない「隠蔽体質」もあった。
なぜ、不正がまかり通ったのか。一つの要因は、フイルムにとって、ゼロックスの存在が大きくなり過ぎたことにある。富士ゼロックスは1962年、富士写真フイルムと英ランク・ゼロックス社との折半出資により設立された。初代社長はフイルム社長の小林節太郎氏が兼務した。つまり、当時からフイルム社長「肝いり」の会社だったわけだ。
その後頭角を現したのは、節太郎氏の長男、陽太郎氏だった。1963年にフイルムからゼロックスに転じ、1970年に広告キャンペーン「モーレツからビューティフルへ」を展開。1978年に44歳の若さで社長に就任し、ゼロックスの「顔」として活躍した。1988年には「個の発想を重視した新しい働き方」を提唱、1990年に国内で初めてボランティア休職制度を導入するなど、先駆的な取り組みを実践した。1999年には経済同友会代表幹事に就任している。