100万人の便のサンプルを集めてデータベース化し、中に含まれる腸内細菌を研究し、がん治療に役立てようという壮大な試みが進んでいる。その名もウンチからとった「昭和大学Uバンク(便バンク)」プロジェクトだ。昭和大学臨床薬理研究所が中心となり、昭和大学グループ(8病院3200床)と大阪市立大学や滋賀医科大学などが共同研究チームを立ち上げた。
人間の体内に住む腸内細菌が免疫に与える力を解明し、新しい診断法や治療法の開発を目指すという。プロジェクトの中心になっている同研究所の角田卓也教授(臨床免疫腫瘍学講座)に腸内細菌とがん治療の免疫療法について聞いた。
人間の体は細胞と細菌からなる「超生命体」
――腸内細菌といえば、肥満の防止や便秘の解消、それに最近はうつ症状の改善にも効果を発揮すると言われていますね。
角田卓也教授「そのとおりです。人間の腸内には重さにして約1.5キロ、約1000種類の腸内細菌が100兆個も住んでいます。人間の細胞がいくつあるかご存知ですか? 約37兆個です。腸内細菌は細胞の数より3倍も多いのです。だから、人間の体はヒトの細胞と細菌からなる『スーパー・オーガニズム(超生命体・超有機体)』であるというのが最新の医学の考え方です」
――腸内細菌がそれだけ人間の体に強い影響を与えているのはわかりますが、がんの治療とどういう関係があるのですか。
「面白いことに、実験用マウスがそれを教えてくれたのです。2015年11月に科学誌『サイエンス』に論文が掲載されました。シカゴ大学の研究チームが悪性皮膚がん(悪性黒色腫:メラノーマ)に対する免疫応答をマウスで調べていると、実験用マウスを購入した会社によって反応が違うことに気づきました。同じ種類で同じ週齢のマウスなのにA社から買った方が、B社から買った方よりはるかに免疫応答がいい、つまりがんが進行しにくいのです。そこで、両社のマウスの腸内細菌の違いが関係しているのではないかと推察して、同じケージで飼育してみました」
――その結果、何が起こったのですか。
「両社のマウスの間で、がん細胞の成長の差が完全になくなったのです。マウスはケージの中に落ちている糞を食べますから、Aマウスの腸内細菌がBマウスにも共有され、Bマウスの免疫力が向上したのです。これを確認するためにAマウスの糞をBマウスの胃に投入すると、やはり免疫力が強くなり、がん細胞の成長が遅くなりました。そこで、腸内細菌の何が変わったのか調べると、ビフィズス菌が増えていることを突きとめました。ヨーグルトに多く含まれている善玉菌です。英国国立がん研究所の研究でも、悪性の進行がんの患者さんの腸内細菌を調べると、免疫療法に反応した患者さんの腸内細菌は種類の多様性が高いことが明らかになりました」
日本人のがん治療の成績が良いのは腸内細菌のおかげ
――腸内細菌の違いが大きいのですね。
「抗がん剤の臨床試験では、『日本人の成績は良く、治療効果が高い』といわれています。たとえば、すい臓がんに使うジェムザールという薬では、日本人は欧米人などほかの国の人より平均約2か月長く生きます。肺がんの薬でも生存率が高いのです。これは、日本人の食育のレベルが高く、いい食生活をしているから腸内細菌の種類が多く、腸内環境の状態がよい可能性が高いからとも考えられます」
――腸内細菌の種類が多いほどがんの免疫療法が効く可能性が高いということですか。ところで、がんの免疫療法とは何でしょうか。
「人間の体には、がん細胞を攻撃し殺傷する免疫細胞がたくさんいます。しかし、がん細胞も自衛し免疫細胞を働かなくしていることがわかってきました。免疫細胞は体のあちこちでがん細胞やウイルス、細菌など外敵と戦うため、戦場のような状態になり、私たちの体は炎症を起こします。だから、免疫細胞は戦いが終わった後は過剰防衛にならないようブレーキが働き、鎮静化します」
――激しい戦いが体の中で行なわれているのですね。
「中でも特に強力で、スナイパーと呼ばれるT細胞は、働きすぎると火災現場のように他の組織を傷つけます。そこで、T細胞にはあらかじめブレーキ役の分子「PD-1」(Programmed cell death-1)が備わっています。がん細胞は免疫の攻撃から身を守るためこのPD-1を悪用します。自分の分子(PD-L1)とT細胞のPD-1を結合させると、T細胞は攻撃をやめてしまいます。ちょうどT細胞のカギ(PD-1)が、がん細胞のカギ穴(PD-L1)にガッチリはまり、身動きできなくなった状態を想像するとわかるでしょう」
がん細胞は免疫細胞の攻撃力を封印し増殖する
――がん細胞はT細胞の攻撃力を封印させて増殖するわけですね。
「はい。このPD-1=PD-L1の結合のカギをはずし、ブレーキを解き放ってT細胞を活性化させるのが、免疫チェックポイント阻害薬と呼ばれる免疫療法の薬剤です。免疫チェックポイント阻害薬には、PD-1=PD-L1以外に抗CTLA-4抗体もあります。抗PD-1抗体には『ニボルマブ(商品名オプジーボ)』『ペンブロリズマブ(商品名キイトルーダ)』があり、悪性の皮膚がんや肺がんなどに使用が承認されています。一方、抗CTLA-4抗体は『イピリムマブ(商品名ヤ-ボイ)』があり、悪性の皮膚がんに使用が承認されています」
――実際には、どの程度効果があるのでしょうか。
「免疫チェックポイント阻害薬の特徴は、進行したがんにも効果があるということです。ただし、すべての患者さんにではなく、まだ一部の患者さんですが。私はその効果を『カンガールテール(カンガールの尾)効果』と名づけました。たとえば、イピリムバムの場合、悪性皮膚がんの患者さんに投与した結果を調べると、3年後の生存率は約20%です。ところが、10年後の生存率も約20%、つまり、3年生きた人はその後も生き続けるのです。だから、生存率のグラフがカンガルーの尾のように平らに真横に伸びていきます。従来の薬剤では、10年後まで生き残る人はほとんどいなくて、グラフは地面にくっつきます。進行性肺がんのニボルマブも同じで、3年生きた約30%の人はその後も生き続けているという報告もあります」
――進行性のがんの患者に希望を与える話ですね。
「2016年10月にコペンハーゲンで開催された第41回欧州臨床腫瘍学会で、今後の肺がん治療が根本から変わる臨床試験の結果が報告されました。ステージ4の進行肺がん患者に対し、従来の抗がん剤の中では最も効果がある薬剤を投与したグループと、免疫チェックポイント阻害薬(ペンブロリズマブ)を投与したグループに分け、がんがある一定以上大きくなる期間を比較検証しました。すると、抗がん剤が平均6か月だったのに、抗PD-1抗体は平均10か月でした。全生存期間も大幅に改善しました。さらに、重篤な副作用も抗がん剤の半分でした。抗がん剤の『大横綱』と呼ばれ、30年間変わらなかった薬より好成績を残したのです。免疫チェックポイント阻害薬(ペンブロリズマブ)は単に免疫のチェックポイント(検問所、関所)を外しただけで、私たち人間が従来備わっている、がんをやっつける免疫能が『大横綱』より強力であったということです」
「がんは死に至る病から、糖尿病と同じ慢性疾患に」
――進行性のがんでは、ほとんどが助からなかったのに、亡くならない患者が出てきたということですか。
「そのとおりです。『がんはもはや死に至る病ではなく、糖尿病や高血圧などと同じく、慢性疾患となりつつある』ということを強調したいと思います」
――非常にうれしいことですが、まだ効く人が2~3割だけなのですね。効く人と効かない人の差はどこにあるのでしょうか。
「それを突きとめるためには腸内細菌の分析が必要で、今回のプロジェクトの最大の目標です。免疫療法を行なった患者さんのがん細胞を詳しく調べると、がん細胞の周りをT細胞が取り囲んでいます。T細胞は決してサボっているわけではなく、がん細胞がブレーキをかけているため攻撃できずに待機しているのです。いわば、がん細胞がダムを作り、T細胞の流れをくい止めている構図です。免疫チェックポイント阻害薬はダムを破壊し、T細胞の流れを一気にがん細胞に向かわせる役割です。そして、ダムにたまるT細胞の量が多い人ほどがん細胞が小さくなり、たまる量が不十分だと効果が上がらないことがわかりました」
腸内細菌のデータから「がんにならない体」つくりを
――T細胞の集結具合が少ない人、つまりダムの水が少ない人が効きにくいということですか。その差はどこからくるのでしょうか。
「T細胞が多い人、少ない人、またT細胞の働きがいい人、よくない人の個人差があります。それは、その人本来が持っている免疫力の差だと考えられます。多くの人の腸内細菌を分析、比較することによって、どの腸内細菌が免疫力を高めるのか、また、どの腸内細菌を持っていると免疫療法が効きやすいのか、パターンがわかると思います」
――具体的にはどうやって便のサンプルを集め、どう活用していくのですか。
「昭和大学の8つの付属病院とほかの医療機関に働きかけ、文書でご同意を頂いた入院患者や外来を受診した人にお願いし検便キットを渡します。その人たちの病歴データを集め、腸内細菌の種類と照合します。現在、約1000人分集まっており、まず腸内細菌のDNAを検査して種類を特定することから始めます。また、手術で摘出したがん組織の詳細な解析と腸内細菌を検討することで、その患者さんの持つがんに対する免疫能を把握することができます。まず、免疫療法が効く患者さん、効かない患者さんをより分けることはそう先ではなくできると考えております。その後は、免疫療法が効く腸内細菌にどのように換えるか、すなわち、腸内細菌をコントロールすることで、がんにかからない、あるいは、たとえがんになったとしても免疫療法で治る体をつくることが究極の目的ですね」
――昭和大学Uバンクは他の病気にも応用できるのですか。その場合、どんな運用を考えていますか。
「最近は、うつや自閉症などの精神疾患や肝硬変、脂肪肝などの肝臓病も腸内細菌が影響しているという研究があります。また、花粉症などアレルギー疾患や自己免疫疾患など、がん以外の病気との関連を調べられるようにデータを構築したいと考えています。2017年中にデータにアクセスできるようにするのが目標です。患者さんのためになる試みであれば、広く皆さんに活用していただける昭和大学Uバンクの運用を考えております」