【熊本地震1年(上)】
「仮設」暮らしの先に... 故郷を去るのか、戻るのか

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分断されなかった地区住民

   阿蘇くまもと空港から車で15分ほどの場所にある「西原村小森仮設団地」。被災した西原村の住民が、ここで暮らしている。岸森さん夫妻が住む大津町の仮設団地と比べて、規模はずっと大きい。機械修理・メンテナンス業を営む志賀勇さん(39)は現在、妻と3人の子の5人で「3K」の部屋に住んでいる。

   1年前の4月14日夜、仕事を終えて西原村古閑(こが)地区の自宅に帰宅した後、地震にあった。大きな被害はなく、翌日の夜もそのまま自宅で寝ようとしていたが、長男が「家は怖い、車で寝たい」とぐずった。仕方なく親子5人で車中泊を決め、寝入ったところに本震が起きた。西原村は震度7を記録。家屋の倒壊は免れたが、揺れが収まった後に中に入るとタンスやテレビが倒れていた。志賀さんは当時、娘が生まれて間もなかった。もしもあのまま全員家で寝ていたら、無傷ではいられなかったかもしれない――。

   一家は地区住民とともに、避難所が開設された山西小学校に移った。日中はそこで過ごし、夜は「幼い子が騒いで避難者に迷惑をかけてはいけない」と、妻は赤ちゃんと広い体育館に残り、志賀さんは2人の息子を連れて車中泊することが多かった。その後、NPO団体が東日本大震災の際、宮城県石巻市の被災者のために活用したキャンピングカーを西原村に回し、その1台に入ることができたため、妻の実父を加えた6人で生活を始めた。しばらく住んだが、いったん西原村の自宅に戻る。「半壊」と判定されてはいたが、屋根にブルーシートをかけて雨漏りを防ぐなど「応急処置」を施して1か月ほど住んだ。志賀さんは、民間賃貸住宅などの「みなし仮設」に応募していた。仮設団地の場合、子どもが騒いで隣近所に迷惑をかけるのが心配だったからだ。ギリギリまで待ったが結局、希望はかなわず、2016年12月初めに今の仮設住宅入居を決断した。

   住み始めて感じたのは「意外と不便じゃない」。子どもの物音には気を使うが、隣人たちは「小さい子は元気よく飛び回って当たり前」と理解がある。近所には古閑地区からの被災者も多く、子どもたちは顔見知りの「お兄ちゃん、お姉ちゃん」が毎日のように遊んでくれて大喜び。スーパーは、むしろ実家にいた頃より近くなった。自宅に比べれば狭いし、家の周りでは子どもたちの遊び場が限定されてはいるが、実生活面の不満はないという。

   阪神・淡路大震災や東日本大震災では、被災者の仮設住宅移動に伴うコミュニティーの分断が問題となった。だが志賀さんの場合、古閑地区の住民が同じ仮設団地にまとまっている。多くのボランティアに励まされ、仮設団地では「地区住民の絆が強まった」と志賀さんはほほ笑む。地区の「区長」を務めた経験から、このまま地区のつながりを維持したいと考え、仲間たちと話して昔から続いてきた夏祭りのような行事を絶やさないようにしようと決めた。

   まだ先の話だが、仮設を出た後は古閑地区に戻って自宅を建て直す予定だ。同じ地区の消防団に所属する若者たちも「古閑に残りたい」と口にしている。全員が帰って来るわけではない。それでも、「復興委員会」を立ち上げて再建を目指す機運が高まってきた。

「地区に人が戻ってくれるように、ここにおるみんなでがんばらんとダメばい」

   (この連載は3回掲載します)

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