きっと泣くまいと決めていたに違いない。
だが、彼女が21年に及ぶ競技生活に込めた思いは、それを許してはくれなかった。
浅田真央ちゃん(あえて、「ちゃん」と呼ばせてもらう)が引退会見で、最も印象に残っていると挙げたのは、3年前のソチ冬季五輪のフリープログラム(FP)の演技だった。私にとっても心に残る演技で、いまでもビデオを保存している。ショートプラグラム(SP)で16位と大きく出遅れながらも、完ぺきな演技を見せてくれた、あの奇跡的な場面を振り返ると彼女の競技人生の一端が見えてくる。
「止められてでも、リンクに助けに行くから」
2010年のバンクーバー冬季五輪でライバルとして競い合ってきた韓国の金妍兒(キム・ヨナ)に次ぐ銀メダル甘んじた彼女は、ソチ五輪で金メダルを手にすることを目標に、4年間、努力を続けてきた。10代半ばのころと比べて身長や体重も増え、得意のトリプルアクセルが跳べずに不調に陥り、引退まで考えたこともあったという。それでもグランプリファイナルで優勝し、ソチにも万全の体調で乗り込んできたはずだった。
SPでは押し潰されそうな重圧のなか、冒頭のトリプルアクセルで転倒し、コンビネーションジャンプも不発に終わった。まさかの16位だ。演技の後、放心状態でインタビューに応じた彼女は「まだ何もわからないです」と答えた。二十数時間後に行われるフリープログラムでは、どんなに高得点をたたき出してもメダル圏内に入ることは不可能だ。佐藤信夫コーチが見かねて、人のいない男子更衣室に彼女を誘った。
「(3回転ジャンプを)できない原因は見当たらない。間違いなくできるはず」
彼女は聞いているのか、聞いていないのか、ただ茫然としていたという。佐藤コーチは続けた。
「死ぬ気でやれ。何かあれば、先生が止められてでも、リンクに助けに行くから!」
ここからFPまでの二十数時間に何があったのか。ユーチューブに数々の証言が記録されている。
宿舎に戻った彼女は、なかなか寝付けなかった。「4年間目指してきたものが、一瞬にして消えてしまった」という現実に打ちのめされていた。姉の舞さんからのメッセージにも返事を送る気になれなかった。「このままじゃ日本に帰れない」とも思った。周囲は「気持ちを切り替えろ」と励ましてくれるが、頭ではわかっていても心はすぐには反応できるものではない。寝付いたのは午前4時過ぎだったという。
「終わったのはまだ3分の1だ」
彼女は早朝のFP前の公式練習に、珍しく遅刻した。ビデオを見ると、リンクに上がった彼女の表情は硬く、蒼白だ。明らかに前日の失敗を引きずっているように見えた。トリプルアクセルを3回試みるが、いずれも不完全に終わった。
「いままで何をしてきたんだろう」
そんな思いが彼女の心によぎったという。あまりの無気力な練習ぶりに、佐藤コーチは彼女をリンクサイドに呼び寄せた。
「終わったのはまだ3分の1だ。3分の2が残ってるのに、こんなに気が抜けてどうする。気合を入れろ!」
FPの点数はSPの2倍だという。佐藤コーチとしては、途中で諦めることの嫌いな彼女の心に火をつけたかったのだろう。温厚な人柄には珍しく声を荒げ、こぶしを握りながら彼女にぶつけた。
練習後、昼食を食べているとき。真央ちゃんの姉の舞さんから電話が入った。
「楽しんでやっておいでよ」
舞さんにすれば、どんな言葉をかけたら立ち直れるか、考えた末のことだった。だが、真央ちゃんは、こう言い返した。
「楽しんでできるわけない」
いつのころからだろう。彼女の演技に無邪気さが消えたのは。初めてグランプリファイナルを制した14歳のころの彼女は、表現力こそ幼かったが、滑ることが楽しくて仕方がないような屈託のない笑顔を見せてくれていた。だが、シニアでの演技を始めたころからか。日本中の期待が重圧となって、演技に悲壮感さえ漂うようになっていた。
電話の最後に舞さんは、こう伝えた。
「これまで何百回、何千回もジャンプを跳んできて、できないわけないんだから、もったいない。自信をもって思い切ってやってこないとダメだよ」
夜に始まる演技のために会場入りした真央ちゃんの目は、闘う者のそれに変わっていた。
「こんなにすごい会場を見て、やるしかない、と心に決めた」と記者会見で述べている。
リンクでの準備を終えて、佐藤コーチのいるリンクサイドに向かう。佐藤コーチは、大きく頷きながら、こう告げた。
「さあ、自信をもって思い残すことのないように滑ってきてください」
そして、にらみつけるような表情で檄を飛ばす。
「頑張って、行け!」
しばらく足踏みをしていた真央ちゃんは、意を決したように頷き、そして静かに答えた。
「行ってきます」
リンクの中央に向かう彼女に、客席にいた羽生結弦選手が「真央ちゃん、ガンバー!」と叫ぶ。別の客席にいた高橋大輔選手は、手を前に合わせて祈るように「真央、頑張れ」とつぶやく。女性の観客からも「真央ちゃんならできる!」と声が飛んだ。
みんなわかっている-16位の選手ではないことを
中央に立った真央ちゃんは、大きく深呼吸をしてポーズに入った。
冒頭のジャンプは25秒後に訪れた。こだわり続けたトリプルアクセルだ。真央ちゃんの代名詞でもある一方、点数が高い代わりに失敗すると減点される、いわば諸刃の剣だ。SPでも、この失敗から歯車が狂った。「これまでの大会でも、このジャンプを回避さえすれば優勝回数はもっと多かったかもしれない」と、佐藤コーチを嘆かせたが、彼女自身がそれを許さなかったのは、「跳ばずに勝っても、うれしくない」というプライドだ。これを回避することは、自分の存在価値を否定することになりかねない。
FPの冒頭で、それに挑んだ。助走で彼女は自分を鼓舞するかのように、少し顎を上げた。氷を蹴って描いた放物線の先に、きれいに着地した。続けて3回転のジャンプを次々と成功させていく。リンクサイドの佐藤コーチは「まだ滑れるよ。滑れるよ!」と叫んでいる。ジャンプのたびに首を縦に大きく振って相槌を打つ羽生選手。
時間が経つにつれて、いつもの躍動感が戻ってきた。リンクを縦横無尽に滑るリズミカルなステップに、客席は手拍子で呼応する。観客も見事な足さばきに魅了され、会場に一体感が生まれる。みんなわかっているのだ。16位に甘んじている選手ではないことを。客席から見守る高橋選手の目から、涙がこぼれているのがわかる。
この時、彼女の脳裏からは金妍兒のことも、SPで失敗したことも、重圧も消えていたに違いない。真っ白なリンクの上に、自分だけの世界を描いていった。
6種類8回の3回転という、かつて女子の誰もが成し遂げたことのないプログラムをノーミスでこなしていく。最後のジャンプを決めると、斜め下に伸ばした手の先で、小さなガッツボーズを決めた。
そして最後は、上を向いて4分間の演技を終えた。
その天を仰いだまま、顔が歪んでいく。
2度ほど肩が揺れた。
嗚咽していた。
観客への挨拶のために、リンクの中央へと移動する途中、彼女は泣いている自分の心に区切りをつけるかのように、こっくり頷くと、いつもの笑顔が戻った。
インタビューでは、前日のSP後に佐藤コーチから掛けられた「助けに行くから」という言葉を吐露した。彼女はちゃんと佐藤コーチの言葉を受け止めていたのだ。
いろんな人に支えられて、SPで引き裂かれたプライドを、取り戻した瞬間だ。
五輪後、1年間の休養を宣言して、現役に復帰した真央ちゃんは、出だしこそ好調だったが、昨年12月の全日本選手権では、かつてない12位という不名誉な記録に終わった。
完璧を目指す彼女にとって、もはや選手生活を続けていくことはできなかったのだろう。 引退会見で、彼女が繰り返した言葉がある。
「いろんな人に支えられて」
常に感謝の気持ちを忘れず、偉ぶることもなく他の選手だけでなく他国選手と接していた彼女は、フィギュアスケート界の憧れの存在でもあった。そういう彼女らしい振る舞いが会見では随所に見られた。質問者が変わるたびに、向き直って目を見て答える。どんな突飛な問いにもはぐらかさず、嫌な顔ひとつせずに真摯に応じた。人としての魅力が、会見場の記者たちをも魅了した。
「最後に一言」と促された彼女は、話しながら涙をこらえることができなかった。悔いはないと言いながらも、きっといつか「もう一度、あの舞台に立ちたかった」と思うに違いない。それでも「引退」を選んだのは、彼女が限界まで自分自身と闘ってきたという証でもある。
会見を終えて退場する真央ちゃんに対して、自然に拍手が起きた。
(ジャーナリスト・辰濃哲郎)