【震災6年 ふるさとの今(2)岩手県陸前高田市】
土地のかさ上げと巨大な防潮堤 「再生目指す街」に人は戻るのか

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   岩手県陸前高田市は、東日本大震災の津波で壊滅的な打撃を受けた被災地のひとつだ。

   震災から6年、市の中心部では復興工事が進み、多くのダンプカーが幹線道路をひっきりなしに行きかっていた。だが街の再生は、住民がいなくては実現しない。新たな家や建物が完成した後、以前のようなにぎわいを取り戻せるか。

  • 震災当時の津波被害を説明する河野正義さん。写真右奥に「奇跡の一本松」が見える
    震災当時の津波被害を説明する河野正義さん。写真右奥に「奇跡の一本松」が見える
  • 「奇跡の一本松」の背後には、高さ12.5メートルの防潮堤がつくられていた
    「奇跡の一本松」の背後には、高さ12.5メートルの防潮堤がつくられていた
  • 街の中心部だった場所は、今も復興工事が続いている
    街の中心部だった場所は、今も復興工事が続いている
  • 津波で破壊された「タピック45」をガイドする河野さん
    津波で破壊された「タピック45」をガイドする河野さん
  • 震災当時の津波被害を説明する河野正義さん。写真右奥に「奇跡の一本松」が見える
  • 「奇跡の一本松」の背後には、高さ12.5メートルの防潮堤がつくられていた
  • 街の中心部だった場所は、今も復興工事が続いている
  • 津波で破壊された「タピック45」をガイドする河野さん

津波で流れ着いた木が建物の中に残る

「中に何が見えます?」

   陸前高田観光ガイドを務める河野正義さん(60)に促され、「タピック45」(道の駅高田松原)の壊れた建物の中を記者がのぞき込むと、息をのんだ。津波でメチャメチャに破壊され尽くした館内には、不思議なことに太い木が1本見えた。最初から生えていたわけではない。津波で流れ着き、その威力で内部に押し込められてしまったのだ。

   河野さん自身も被災者のひとり。住まいのあった市東部の小友町は、リアス式海岸特有の海に突き出した地形になっている。そのため、震災による津波は多方向から押し寄せ、巨大な波同士がぶつかったという話もあったほどだ。

「私は、足元まであと1メートルぐらいのところにまで真っ黒い渦が近づいてきたのを記憶しています」。

   家にいた妻の両親を連れて、高台に避難した。家は津波で全壊した。いったん市内の親戚の家に身を寄せ、その後は「みなし仮設」として隣接する大船渡市の住宅で2年を過ごした。現在は小友町で再建した自宅で暮らしている。

   震災の記憶を多くの人に伝える「語り部ツアー」のガイドを始めたのは、2012年10月からだ。以後、国内・海外含め2万2000人以上を案内してきた。

   記者が最初に案内された場所が、災害公営住宅「下和野団地」だ。ここから、津波で大きな被害を受けた市中心部が見渡せる。近辺では、地面から最大10メートルの高さまでかさ上げする工事が進行中だ。この後、先述の「タピック45」に加えて、津波が建物の5階、高さ14.5メートルまで到達した「下宿(しもじゅく)定住促進住宅」や、全員が避難したものの川からあふれ出た大量の水で被災した「気仙中学校」といった「震災遺構」を見学した。

高さ12.5メートルの防潮堤でも心配

   河野さんが最後に連れて行ってくれた場所は、かさ上げ工事中の、だだっぴろい土地だった。実はその一角にかつて、河野さんの生家があった。200年以上続く、老舗のしょうゆ店だ。蔵や製造工場は全壊し、河野さんの子どもの頃の思い出も、すべて失われてしまった。

   今ではがれきの山が取り除かれて整地され、新たな街づくりに向けて歩んでいるように見える。だが河野さん自身は「かさ上げしても、空き地だらけになったら...」と不安だ。震災前は約2万4000人だった陸前高田市の人口は、2017年2月28日現在で1万9811人まで減少した。人が減れば街の活力は失われる。真新しい店ができても、買い手がいなければ地元の商店主たちには死活問題だ。

   もう一つの心配の種が、高さ12.5メートルの「巨大防潮堤」の建設。河野さんは「あくまで個人的な意見ですが」と前置きしたうえで、「あれをつくったら、津波が来ても逃げない人が出てくるのではないでしょうか」と危惧する。

   実は市内には、1960年のチリ地震津波を教訓に、高さ5.5メートルの防潮堤が築かれていた。だが東日本大震災では、想定をはるかに上回る津波が街を飲みこんだ。未確認だが、犠牲者の中には、この防潮堤の威力を過信して「大丈夫だろう」と避難しなかった人も含まれると河野さんは耳にした。何十年も経過すれば、津波の記憶は薄れていく。人の命を守るために防潮堤が建設されると分かってはいるが、また想定外の津波が襲ってきたら、同じ悲劇を繰り返さずに済むだろうか――。

「やはり地元に愛着があるんでしょうね」

   河野さんは高校を卒業後、20年ほど陸前高田市を離れたが、30代で戻ってきた。震災で家を失い、大船渡市で避難生活を送った際に一時は本格的な移転を考えたが、最後は地元を選んだ。語り部の活動も、故郷を思う気持ちから始めた。「普段は無意識ですが、やはり地元に愛着があるんでしょうね」。

   震災の経験はつらいが、多くの人に伝える意義がある。街の将来に不安がないわけではない。だが真剣な表情になりがちなツアーの途中で、地元で長く行われている祭り「けんか七夕」の話になると、河野さんの表情がパっと明るくなった。津波で山車が流されながらも、祭りの伝統を絶やすことなく続けている人たち、子どものころに見た「けんか」の勇壮さ。河野さんにとって、ふるさとの誇りだ。

「祭りの話になると、つい話が長くなっちゃって」

   少し照れ臭そうに、笑った。

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