飯舘の景色は変わり過ぎていた
飯舘村は2012年7月17日、多くの地域が「居住制限区域」に指定された。村内では「避難指示解除準備区域」と「帰宅困難区域」に区分された場所もあったが、田村さんの実家がある地域は居住制限区域に含まれ、住民は、原則宿泊を伴わない一時的な帰宅が認められた。2012年4月に大学へ進学した田村さんは、墓参のため在学中に何度か両親と村を訪れた。当初は「懐かしい。早く行きたい」と胸を躍らせたが、変貌していくふるさとの様子に心を痛めた。
「寂しかった。人の気配がなく、景色が変わり過ぎていました」
自宅周辺に広がる水田には多くのクレーン車が入り込み、除染のため削り取られた表土を詰めた黒い「フレコンバッグ」が山と積まれた、異様な光景。緑が広がっていたかつての姿はなく、至る所で土が掘り返されていた。「ここは、もう人が住むことができないんだな」と感じた。さらに自分も「飯舘に定住することはないな」との考えが、頭をよぎった。
家族全員、福島市や郡山市での暮らしが長くなるにつれて、生活の基盤が村から離れてしまった。震災前は近所同士の交流が頻繁だったが、隣人たちも田村家同様に県内外へ避難したため、次第に音信が途絶えていった。
大学卒業直前となる2016年初め、両親から「福島市内に土地を買って、家を建てる」と聞かされた。飯舘出身の両親が下した「村を離れる」という決断は重い。この時、田村さん自身も「飯舘村には戻らない」との気持ちが明確になったという。田村さんにとって何より大切なのは、家族の存在だ。たとえ17年間暮らしたふるさとでも、戻るのが自分ひとりだけでは、家族がそろっていなければ、意味がない――。
「大きな決断でした。でも、家族全員で話し合って決めたこと。福島市に移り住もうという話になった時に、みんな同意しました。場所がどこであれ、家族が元気で、そこに戻ることができるのが僕にとっては一番なんです」