【震災6年 ふるさとの今(1) 福島県飯舘村】
思い出が詰まった村、でも帰らない 避難生活の末に下した人生の選択

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   今年も3月11日がやってきた。東日本大震災では津波や原発事故で、多くの地域が大きなダメージを負い、姿が変わってしまった。

   震災後は生まれ育った地域を離れる人、地元に残る選択をした人に分かれた。J-CASTニュースでは6年目の春を迎えた東北各地で、被災した人々が今、ふるさととどう向き合っているかを取材した。

  • 郡山市内で社会人として奮闘する田村さん
    郡山市内で社会人として奮闘する田村さん
  • 震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景
    震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景
  • 震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景
    震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景
  • 郡山市内で社会人として奮闘する田村さん
  • 震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景
  • 震災前に田村さんが撮った飯舘村の風景

「すぐに戻れる」と思って村を離れたが...

   緑豊かな自然に囲まれた、福島県飯舘村。田村裕亮さん(24)にとって、生まれ育ったふるさとだ。2017年3月31日午前0時、飯舘村の大半の地域では避難指示が解除される。だが、田村さんは村に帰らない。

   現在、郡山市内の会社に勤める田村さんは震災当時、高校2年生だった。自宅からバスと自転車を乗り継いで、南相馬市にある県立原町高校に通学していた。授業中に地震が発生し、生徒は校庭に避難。友人の親の車で自宅に送り届けてもらった頃は、既に周りが暗くなっていた。そして3月12日、東京電力福島第一原発の事故が起きる。田村さんの両親は郡山市に住む親類に電話して、家族全員の一時避難を願い出た。翌13日には自主的に村を離れたが、当時は避難が長期化するとは考えもしなかった。

「ほとんど何も持たずに家を出ました。『すぐに戻れる』と思っていたのです」

   だが、原発事故は深刻さを増していく。親類の家に1週間身を寄せた後、田村さん自身は当時郡山市内に住んでいた兄のもとに移った。その後、両親が福島市内にアパートを借り、田村さんは祖母と同居することになる。原発事故後しばらくの間は村に立ち入れたので、両親は実家に戻っていたが、2011年4月22日に政府が「計画的避難区域」として飯舘村全域を設定すると、田村さんらと合流して福島市のアパートで一緒に住むことになった。

   震災がなければ、母校で4月から高校3年生に進級するはずだったが、福島市に避難したことで「転学」を余儀なくされた。だが田村さんと同じ境遇の高校生が多く、手続きや準備に時間を要し、ようやく通学を始めたのは5月に入ってからだった。このころはまだ、「高校卒業するまでにはすべて解決して、また飯舘に帰れるかな」と希望を持っていたという。

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