財政支出を増やして物価を上げるという米プリンストン大のクリストファー・シムズ教授の理論が注目されている。2017年2月上旬に来日して各地で公演などをして、大盛況だった。
とりわけアベノミクス生みの親ともいわれる安倍晋三首相のブレーン、浜田宏一・内閣官房参与(米エール大名誉教授)が2016年秋以降、シムズ理論に「衝撃を受けた」と公言して、アベノミクスの手詰まりを認めたと話題になったこともあり、一気に知名度が上がった形だ。ただ、財政健全化の棚上げを正当化するものとの危惧も出ている。
浜田参与の言及がきっかけで注目
シムズ教授の理論は、「物価水準の財政理論(Fiscal Theory of Price Level=FTPL)」と呼ばれ、デフレやインフレは金融政策だけでなく、財政政策が決めるという主張だとされる。財政支出拡大→個人や企業が将来の財政悪化を予測→貨幣価値が下落→インフレ――という経路で物価上昇につながる流れだ。
財政支出の拡大というと、ケインズ政策と同じではないかと誤解されがちだが、理屈は異なる。ケインズは、不況の時に減税・歳出拡大、好況の時に増税・歳出カットすると考えるが、FTPLは、国の借金の返済原資が足りない場合、増税ではなく、インフレで借金を「返す」という考えだ。例えば借金の半額しか返済原資がなければ、100%のインフレで原資の額面を2倍にすれば返せるという理屈だ。ポイントは、政府が、「増税ではなく、インフレで(借金を)帳消しにすると宣言すること」(日経新聞2017年1月29日付朝刊シムズ教授インタビュー)。それによりインフレ予測が高まり、モノの値段が上がる(お金の価値が下がる)前に投資や消費をしようとして、モノが売れ、物価が上がる理屈だ。
とりわけ、現在のようにデフレ圧力が強い時、金融政策で名目金利はゼロに近づいているから、マイナス金利含めて一段の利下げには限界があり、政策効果が弱まるため、財政で支援する必要があるということになる。
これが、がぜん注目されるようになったのが、日経新聞2016年11月15朝刊の「経済観測」欄の浜田参与へのインタビューだ。この中で浜田氏は「私がかつて『デフレは(通貨供給量の少なさに起因する)マネタリーな現象だ』と主張していたのは事実で、学者として以前言っていたことと考えが変わったことは認めなければならない」と、あっさり「懺悔」したうえで、「シムズ米プリンストン大教授が8月のジャクソンホール会議(注)で発表した論文を紹介され、目からウロコが落ちた。金利がゼロに近くては量的緩和は効かなくなるし、マイナス金利を深掘りすると金融機関のバランスシートを損ねる。今後は減税も含めた財政の拡大が必要だ」と語ったのだ。安倍首相ブレーンがアベノミクスの限界を認めたと、話題になった。
この理論は目新しいわけではない
もちろん、浜田氏はアベノミクスを失敗といっているわけでもない。その後の新聞や雑誌のインタビューで、「患者の状況が変化したので、これから財政政策という薬Bも併用したほうが(量的緩和という薬)Aの効果も強まると言っているに過ぎない。アベノミクス初期にはAだけでもこれだけ効いたのだから、Aだけを勧めたことを批判されるのは心外だ」(週間エコノミスト12月27日号)と反論。「もっと大事なのが人々の生活基盤となる雇用だ。失業率は低水準、有効求人倍率は25年ぶりの高水準。アベノミクスの前に戻りたい人はいない」(朝日新聞2017年2月3日朝刊)と、アベノミクスを擁護し、消費税率引き上げ(2019年10月)の延期などを訴えている。
こうした浜田氏の主張を疑問視する声は多い。そもそも、浜田氏が、FTPLを初めて知ったように語るのにも違和感を持つ向きが多い。シムズ教授が2011年にノーベル経済学賞を受賞していることでもわかるように、この理論は目新しいわけではない。浜田氏を長年知る経済アナリストの菊池英博氏(民間シンクタンク「日本金融財政研究所」所長)は「文芸春秋」2017年3月号に「浜田君は内閣参与を辞任せよ」との記事を書き、「(浜田氏の)語り口はまるで『僕にも知らないことがあった』といっているようであまりに軽く、国の経済政策を誤らせた責任の重さを痛切に感じているようには受け取れませんでした」などと批判している。
ちなみに、内閣府経済社会総合研究所が2003年5月、研究者の間の議論の材料提示するDiscussion Paperシリーズの一つとして「FTPLを巡る論点について」を出していて、「FTPL 論者の主張に従い財政拡大を行った場合には、物価水準が上昇するのではなく、単にリスクプレミアムの増加による金利上昇を招く可能性が大きい。こうした形での金利上昇は望ましいシナリオではない」と、否定的な主張をしている。ちなみに、浜田氏はこの年1月まで、この経済社会総合研究所の所長を務めていた。
また、浜田氏が、シムズ理論の「肝」といえる「インフレで財政赤字削減」に具体的に触れないことにも疑問が残る。「財政拡大を始めたら、やめると景気を冷え込ませかねないため、実際にやめるのは困難で、結局、インフレをコントロールできなくなる恐れがある」とエコノミストは指摘する。そもそも、インフレで財政赤字を帳消しにするということは、インフレで預金が実質的に目減りする国民の負担で財政再建するということ。公的債務が国内総生産(GDP)の2倍にも達する日本で、すさまじいインフレが必要になりかねない。「国民の反発が必至のインフレとは言えないのだろうが、著名な学者の理論を借りて、実際には消費税率引き上げを再び先送りし、財政再建目標を撤回するお墨付きにしたいという狙いではないか」(大手紙経済部デスク)との見方も出ている。
<注>ジャクソンホール会議は、米ワイオミング州ジャクソンホールで毎年8月に開催される経済シンポジウム。カンザスシティー連邦準備銀行主催で、世界各国から中央銀行総裁や政治家、学者、エコノミストなどが参加することから、そこでの発言が世界的に注目されることがある。