夢に向かって進んでいたある日、事故で自分の将来が一瞬で閉ざされたら、あなたはどうするだろうか。子どものころからパイロットにあこがれ、勉強を続けていた前田伸二さん(37)は大学生のとき、交通事故に巻き込まれて右目の視力を失った。大きなけがからは回復したが、夢は砕かれてしまった。
絶望に打ちひしがれ、一筋の光を求めて米国に向かう。そこで、目が不自由でも操縦士になれる道があると知った。努力を重ね、日本人唯一の「隻眼パイロット」となった前田さんを取材した。
恩師と親友の言葉で気持ちが奮い立った
――パイロットになる夢を持ち始めたのは、いつからですか。
前田 北海道本別町出身の私は、エアラインパイロット(旅客機の操縦士)の候補生を育成する航空大学校分校がある「とかち帯広空港」に向けて、訓練機が実家の上空を飛んでいる様子をいつも見ていました。「いつか、僕もあそこから十勝平野を見るんだ」と夢を描いていたのです。中学卒業後、山梨県の日本航空学園に進学、大学は日本大学理工学部航空宇宙工学科へ進み、エアラインパイロットの道を目指しました。
しかし1998年、大学入学から2か月後に交通事故に遭いました。前方不注意の右折車が、バイクで交差点を直進していた私に突っ込んできたのです。はねられた私は宙に飛ばされ、地面に落下した際に頭部を強打しました。診断は「右前頭部及び左側頭部にかけての脳挫傷」。私の下宿先の近くに住んでいた伯父と伯母には、「48時間が山、最悪の場合あり」と伝えられたのです。
九死に一生を得ましたが、頭がい骨骨折により右視神経を断絶し、右目の視力を一切失いました。
――事故後、自分の気持ちをどうやって前向きにできたのですか。
前田 交通事故発生時から、自分が既に障害者となっていることに気づいていました。ただただ、つらいとしか思えませんでした。
退院後、厳しい現実が待っていました。まるで自分の体ではない感覚で目が回り、太陽の光のまぶしさが強烈でした。大学に戻ったものの、私の学科は、通常1年を費やす授業を半年のスピードで進めていたため完全にお手上げ状態。1年生を終えた時点で「自主退学もやむなし」の成績でした。
「俺の人生は完全に終わった」。そう嘆いていたある日に高校の恩師に電話し、「先生、もうダメです」と話しました。すると、「そうか、死ぬか?じゃ、死になさい」と告げられて「ガチャッ」と切られました。とうとう恩師にも見限られたと思っていると、すぐに電話がかかってきて、こう諭されたのです。「つらいだろうが今は諦めてはだめだ」と。親友からも、「前田、お前は生きていてくれていればいい。一緒に飛行機を飛ばせなくても、お前はこの世に生きてくれればいいんだ」との言葉がありました。こうした激励により、私は自分の気持ちを奮い立たせることができたのです。
それからは、大学で猛勉強の毎日でした。月~土曜日はビッシリ授業、日曜日は製図や実験リポートに追われ、最低限の睡眠時間という地獄の生活でした。あの日々は、もう二度とイヤですね。