紀元節復活に反対の立場
戦後の三笠宮さまは、早い時期にリベラルなスタンスに変わっていたようだ。近年明らかになった資料では、新憲法案を採決した46(昭和21)年6月8日の枢密院本会議で、新憲法案の戦争放棄を積極的に支持。日本の非武装中立を主張していた。ただし、新憲法案については、「どうしてもマッカーサー元帥の憲法という印象を受ける。反対もできないが、賛成も良心がゆるさない」とも述べ、採決では棄権した。
60年ごろ、紀元節復活の動きが強まった時は、歴史学者として「反対」の立場。保守の重鎮・大野伴睦氏のところを突然訪れ、「2月11日というのは科学的根拠がない。国家権力で祝日とするのは間違い」と自ら説明し、「紀元節万歳」の大野氏の翻意を促したこともある。大野氏と親しく、実際にその様子を目撃した読売新聞記者・渡辺恒雄氏は「三笠宮殿下は非常に民主的な人」と記している。
84年に出版した『古代オリエント史と私』(学生社)には「戦争への反省」があちこちに出てくる。騎兵第十五連隊の教官時代、「日本軍による戦争は正義のいくさである」と部下に訓示していたが、「今もなお良心の呵責にたえない」「戦争の罪悪性を十分に認識していなかった」。南京の総司令部に勤務したときは、肝試しに「生きた捕虜を銃剣で突き刺す」などの日本軍の残虐行為を知らされたほか、多数の中国人捕虜を満洲の広野に連行し、毒ガスの生体実験をしている映画も見せられ、「『聖戦』のかげに、実はこんなことがあったのでした」と記す。
あるとき、日本軍の戦利品の中に「勝利行進曲」という映画があった。重慶政府(蒋介石の中華民国政府)制作。日本軍の残虐行為をテーマにした宣伝映画だが、「シナリオは事実をもとにして書かれたとしか思えませんでした」。東京への出張を命じられたとき、この映画を携行し、大元帥陛下にもお見せしたという。
実際、南京から離任するときには現地の将校たちに講話。日中戦争が解決しない理由を「日本陸軍軍人の『内省』『自粛』の欠如と断ずる」と厳しく批判、中国内の抗日活動について「抗日ならしめた責任は日本が負わなければならない」と分析していたことが、近年発掘された文書資料で明らかになっている。
この文書は当時、回収されたといわれるが、陸軍内部ばかりでなく日本の上層部にも回覧され、非常に大きな衝撃を与えたという。
2000年6月、日中友好に力を注いだ画家、平山郁夫さんの古稀の会でも、「戦時中、中国での日本軍の残虐行為を間近にして、身の縮む思いをしました。そのことを昭和天皇に報告した」と語っていた。