「迫る本土決戦」「いまぞ国民総武装」 むのたけじさん、責任を取った「戦意高揚記事」

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異論を許さぬ戦時体制が進行

   戦前の日本では、出版法や新聞紙法、治安維持法、国家総動員法などによって多方面にわたる言論統制が行われていた。検閲は常態化し、発禁処分もあった。異論を許さぬ戦時体制がじわじわと強化され、「御用メディア」のみが生き残れる状況だった。アサヒグラフもそうした「国策協力媒体」だった。

   戦後、各新聞が大いなる反省を強いられる中で、朝日新聞は社説「自らを罪するの弁」(1945年8月23日)、声明「国民と共に立たん(関西版では「―起たん」)」(1945年11月7日)を発表し、村山長挙社長以下幹部がいったん辞任した。

   だが、武野さんは、国民を裏切った「自らの責任」にこだわった。新聞社を退社し、3年後の1948年、故郷の秋田にもどり、週刊新聞「たいまつ」を30年間、発行し「反戦平和」を訴え続けた。近年は、各地の講演などで戦争責任を死ぬまで反芻した。

   むのさんのところにはしばしば若い世代のマスコミ人が話を聞きに訪れた。メディアが戦争中に犯した「苦い教訓」を当事者からじかに聞くためだった。その死はNHKも全国ニュースで報じ、読売新聞も「戦争の根絶を訴え続けたジャーナリスト」と伝えた。

   肺がん、胃がんを患って晩年は体重40ロそこそこ。読売新聞の秋田版によると、最近は哲学小説を書いていた。62歳の人類学者と16歳の少女が主人公。自分が考え続けたことを2人の手紙のやりとりを通じて伝えたい。これを出すまでは死ねないと話していたという。 その夢はかなわなかった。

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