モハメド・アリが挑んだ リング外の「闘い」とは

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   プロボクシング界のスーパースターだったモハメド・アリが「肺血症ショック」のため亡くなった(2016年6月3日)。選手としての評価の裏側で差別に対する闘いの生涯でもあった。

「20世紀最高のスポーツマン」

   アリをそう認定したのは、米国有数の雑誌として知られるスポーツ・イラストレイテッドである。超大物の死去によって米国の20世紀は終わった、と思えるほど、世界のメディアはトップニュースで訃報を報じた。

  • 3度チャンピオンに輝いた(画像はイメージ)
    3度チャンピオンに輝いた(画像はイメージ)
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「蝶のように舞い、ハチのように刺す」

   各界著名人のコメントも相次いだ。

「アリは世界を揺るがし、それによって世界はよりよい場所になった」

   こう談話をだしたオバマ米大統領は、自分の書斎にアリの写真とグローブを飾っているという。

   アリはボクサーとしての名声、評価がある一方、黒人ゆえの人間の闘いもしてきた。他のボクサーとは大きく異なる存在だった。

   ボクサーとしての評価はだれもが最大級の賛辞を贈っている。ただ強かっただけでなく、ヘビー級ボクシングをすっかり変えてしまった。

「蝶のように舞い、ハチのように刺す」

   この例えがそれを言い表している。

   ヘビー級といえば、大男がいかに強いパンチで相手をKOするか、だった。ジャック・デンプシー、ジョー・ルイス、ロッキー・マルシアーノらの力の戦いを、アリは華麗なフットワークとスピードを駆使し、鋭いパンチとジャブで相手を仕留めるスタイルでイメージを変えた。

   本名のカシアス・クレイを改名したところに人間アリの姿があった。1960年のローマ五輪ライトヘビー級で金メダルを取り、プロへ。64年にヘビー級王者となる。22歳の若さだった。その直後、黒人指導者マルコスXの影響を受け、イスラム教の信者となりモハメド・アリと改名した。

「カシアス・クレイは奴隷の名前だ」

   このアリの言葉は、人種差別に対する深いもので、米国社会だけでなく、世界に訴えるものでもあった。

   金メダルを川へ投げ捨てたといわれる。それはローマから帰国した後、レストランで食事提供を拒否されたからだ、と自伝に書いている。

言葉の名手でもあった

   そして兵役拒否。67年、ベトナム戦争への徴兵を拒んだ。

「私とベトコンの間に争いはない」

   徴兵拒否の裁判で一、二審は「禁固5年」だったが、最高裁で「無罪」。この間、チャンピオンを剥奪されている。

   ボクサーとして、人間としてつらい時期を過ごした。それを克服したのは72年のチャンピオン奪回だった。コブシで地位復活を果たしたのである。74年にはジョージ・フォアマンにKO勝ちし、三たびチャンピオンベルトを手にした。この試合は「キンシャサの奇跡」(現コンゴ民主共和国)と語り伝えられる一戦で、日本も含め世界にテレビ中継された。

   アリは言葉の名手でもあった。試合の前にKOラウンドの予告や相手を「ミラ」「ゴリラ」などとののしった。テレビ時代を意識したもので、プロモーターとしての才能を発揮した。

   日本のファンも多く、76年のプロレスラーのアントニオ猪木との試合は記憶に残る。

「格闘技世界一決戦」

   こう銘打ち、テレビの視聴率は40%を記録したという。アリ18億円、猪木6億円がギャラだった。

(敬称略 スポーツジャーナリスト・菅谷 齊)

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