東日本大震災経験者「見通しが描けないのが何よりも苦しかった」
ライフラインの停止は、たとえ数日でも日常生活に大きな打撃となる。思い出されるのが、2011年3月11日の東日本大震災だ。岩手、宮城、福島の各県で、広範囲にわたって電気、水道、ガスの供給が止まった。
宮城県気仙沼市で被災し、自宅を津波で失った男性は、当日の夜を避難所に当てられた市民会館で過ごした。だがそこは「急ごしらえ」で作られた場所だったため、食料や毛布は用意されておらず、男性が妻と到着した時間帯には館内が人であふれており、玄関で夜を明かすしかなかったという。
「夜は寒くて耐えられず、しかも人が出入りするたびに入口が開閉して外気が入って来る。暖房もなく、とにかく寒さがつらかったですね」
避難所での暮らしはとても無理だと翌日、夫婦で妻の実家に身を寄せた。水はわき水を使えたが、電気は3日間ストップしていた。男性はJ-CASTニュースの取材に、「先の展望が見えないのが、精神的に厳しかった。いつ電気が復旧するのか、水や食料が店に入荷するのは何日後か、分からないまま過ごさねばならないのですから」
宮城県仙台市に住む30代女性も、震災当日に「この先どうなるか、不安が募りました」と答えた。震災後は電気が2日間、水も1週間程度止まった。幼い2人の娘がおり、自宅が無事で沿岸部から離れた場所のため避難所へは行かなかった。それでも停電の影響で、近所のスーパーは軒並み営業休止。コンビニエンスストアが1軒だけ、スナック菓子やインスタント食品を販売していたという。
電気や水道がいつになったら復旧するという情報は入ってこない。コンビニで長い列に並びながら「次はいつ、食料が入荷するんだろう。そもそも、次もこの店で買えるのだろうか」と心細くなったと振り返った。結果的には電気のない生活が数日で終わったとしても、その時点では見通しが描けないのが何よりも苦しかったそうだ。
避難所はもちろん、自宅であっても電気や水が使えなければ、単に不便なだけでなく、時間がたつにつれ精神的にも厳しさが増していくのは、今回の熊本でも同じだ。
熊本では、4月14日夜に最大震度7の地震が発生してから、16日に3日目の夜を迎えるが、大きな余震と天候の悪化で、避難所での生活がいつ終わるのか、めどが立っていない地域が目立っている。