解雇言い渡した社員が4年後、新工場に戻ってきた
福寿水産と同じく鹿折で操業していた缶詰製造会社ミヤカンも、津波で被災した。社長の寺田正志さんは震災当日、横浜に出張していた。2日半かけて気仙沼に戻ると、目の前に惨状が広がっていた。地元で水揚げされたサンマやマグロを使った缶詰販売が軌道に乗り始めた時期だけに、ショックは大きかった。
社員は全員、無事だった。だが事業再開の見通しは全く立たない。震災から1か月後、やむなく社員に解雇を言い渡した。「もしチャンスがあれば再会しよう」と声をかけたが、あまりの被害の大きさに「本当に再建できるのか、自信はありませんでした」と明かす。
実際、悩んだ。時間の経過とともに取引先には別の会社が入り込んでいる。工場の再建費用自体も課題だった。巨額の資金を投じて事業再開にこぎつけても、利益を上げられる企業体質をつくれなければ意味がない。社員とその家族の生活を預かる社長の立場から、苦悩する日が続いた。それでも、前身の「宮城缶詰」から数えて70年の歴史を持つ会社を、自分の代で簡単に終わらせるわけにはいかなかった。
「他の地域にはない、三陸の海の素材の良さで勝負しようと思いました。当社は魚市場から近く、新鮮な魚を『目利き』して手に入れられる。しょうゆやみそといった調味料は地元産を使うので、気仙沼の食文化を生かせる。『おいしいものをつくる』と気持ちの入った商品こそが、私たちの強みでした」
工場再建にあたり、気仙沼市が指定する鹿折の「水産加工施設等集積地」を選び、最大で事業費の8分の7の補助が受けられる「水産業共同利用施設復興整備事業」を活用した。震災前に開発した「ピリ辛ツナ」はじめ、商品力には自信があった。親会社「SSKセールス」の強い販売力も武器となった。
肝心なのは、熟練の人材の確保だ。社員の中には、既に再就職していた人もいた。寺田さんは震災以降、被災した社員の家を訪問して救援物資を届け、連絡を絶やさず、「ミヤカンが再開したら、また一緒に仕事しよう」「ミヤカンでなら、水産加工の技術を磨ける」と呼びかけるのを忘れなかった。2015年4月に新工場が竣工したときには、昔なじみの顔ぶれが並んでいた。「ご両親から『ミヤカンさんに戻りなさい』と説得された人もいたようです」。