2015年、日本にラグビーブームが起きた。日本代表がワールドカップ(W杯)で南アフリカ代表に歴史的な勝利を挙げ、大会を通して大活躍した五郎丸歩選手らメンバーの人気は沸騰した。
東日本大震災で甚大な被害を受けた岩手県釜石市は、ラグビーの街として知られる。かつて「日本選手権7連覇」を達成した伝説のチーム、新日鉄釜石。その流れをくむ「釜石シーウェイブス」は、震災以降も市民を勇気づける存在であろうと、プレーを続けている。
「市民を元気づけるために続けて欲しい」
「ラグビーをどうするか、考えられる状況ではありませんでした」
釜石シーウェイブスのディビジョンマネージャー、桜庭吉彦さん(49)はこう振り返る。津波に飲み込まれた街は、がれきの山と化した。市北部の鵜住居(うのすまい)地区では、多くの犠牲者が出た。今日を生きるのに精いっぱいの被災者のために、チームのメンバーは「自分たちにできることをやろう」と自然発生的に動いた。力自慢の男たちは、支援物資の運搬を中心にボランティア活動に打ち込んだ。
桜庭さんは新日鉄釜石の時代からプレーし、日本代表にも選ばれた。2001年4月にシーウェイブスが「後継チーム」として発足すると、ヘッドコーチなどを務め、今もチームを支える。釜石在住歴は30年を超えるが、地域とチームの「近さ」をずっと感じてきたという。だから、震災で地域住民が途方に暮れていた頃、当たり前のようにメンバーが「力になろう」と素早く行動したのだろう。
シーウェイブスの選手が被災者に物資を届けに行くと、チームの活動再開を望む声がしばしば上がったという。「こういうときだからこそ、市民を元気づけるためにラグビーを続けて欲しい」と。ラグビーは激しいスポーツだ。たとえ苦戦していても、タックルで倒されても、逆境から立ち上がろうと決してあきらめない。そんな選手の姿を被災者は、震災という苦難に際しても何とか前進するんだという自分たちに重ね合わせていたのかもしれない。桜庭さんは語る。
「本当にありがたかった。釜石の皆さんはラグビーを愛している。そういう人たちにシーウェイブスは支えられているんだと、改めて感じました」
2011年度シーズン、シーウェイブスは、国内最高峰の「トップリーグ」の下部リーグ「トップイースト1部リーグ」で6勝3敗の成績を残した。
阪神大震災を経験、釜石では真っ先に被災現場へ
2012年、ひとりのベテラン選手がシーウェイブスに加わった。伊藤剛臣選手――日本代表62キャップ、W杯に2度出場。強豪の神戸製鋼で長年中心選手として活躍し、44歳の今も現役を続ける、ラグビー界の「レジェンド」だ。
伊藤選手が神戸製鋼でルーキーイヤーを終えたばかりの1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた。東京・国立競技場で大学王者の大東文化大を下し、7連覇を達成してからわずか2日後の出来事だ。大一番を制した後、東京の実家で過ごし、「神戸に戻ろうと思っていたその日に、大地震が起きたのです」。
神鋼東京本社の指示で、2週間は東京で待機。その後なんとか芦屋までたどり着くと、目に映った街の様子は一変していた。会社も、神戸製鉄所の高炉が損壊し、ラグビーの練習グラウンドは液状化の被害に見舞われた。ラグビー部は存続が決まったが、震災のダメージ、人々が受けたショックは大きかった。
1995年度シーズンは「V8」がかかっていたが、かなわなかった。それでも、神鋼の社員はもちろん、地元・神戸の人たちが熱烈に応援してくれたと伊藤選手は振り返る。翌シーズン以降も、声援は続いた。1999年度シーズンに日本一を奪還した時は、応援してくれた人たちに「恩を返せたと思いました」。
大震災に見舞われた神戸の街の復興を、ラグビーのプレーを続けながら見守ってきた。その伊藤選手が2012年、シーウェイブスのトライアウトを受けるために釜石に来た。真っ先に向かったのは、被災した沿岸部だった。
「理屈じゃない。本心から、自分の目で街の様子を見たかった」
阪神大震災とは違う、津波による惨状に言葉を失った。同時に、街のシンボルでもあるラグビーで釜石を盛り上げようという気持ちを強くした。「これまでのプレーヤーとしての経験を生かして、ラグビーの街・釜石でチャレンジさせていただきたいと思いました」。
入団直後の2012年6月、シーウェイブスと古巣の神戸製鋼の選手とスタッフが、被害の大きかった鵜住居地区でがれきの撤去、清掃活動といった支援活動をした。その後グラウンドに移り、両チームが合同で練習した後、伊藤選手は男性のオールドファンに声をかけられた。
「『よく釜石に来てくれた』と、ワカメを1袋もらいましたよ。『三陸の海でとれた、世界で一番うまいワカメだ』って。この瞬間『ああ、釜石に来たんだな』と感じましたね。地元の方々がチームに愛着を持っているんだなと」
W杯開催で世界の目が釜石に
シーウェイブスは2015年度シーズン、トップリーグ昇格まであと一息の成績を残した。釜石は、2019年のラグビーW杯日本大会で試合会場のひとつに選ばれた。
桜庭さんは、「震災から8年になる2019年には、多くの支援を寄せてくれた世界中の人々に、釜石がここまで復興したというのを見せたい」と話す。一方、今も多くの住民が仮設住宅で不自由な生活を強いられている現状を指摘し、「釜石の人々に『(W杯を)やってよかった』と実感してもらうために、何が何でも成功させなければなりません」と強調した。釜石市民がW杯に向けてひとつになり、世界中から訪れた人々に喜んでもらうことで市民自身にも達成感を味わってもらい、その気持ちや経験を次は街の発展に生かせたらと考える。
伊藤選手も、W杯の開催は「ラグビー界の一員としてうれしい」と喜ぶ半面、津波で被災した沿岸部は今も復旧工事が続く現状や、阪神大震災では5年でゼロになった仮設住宅が、東日本大震災から5年が過ぎた釜石ではあちこちに残っている様子に心を痛める。それでも、世界規模のイベントであるラグビーW杯が釜石に来ることにより、日本、世界から釜石に注目が集まる。それで復興がスピーディーに進んでくれたらと願う。
釜石に来てから新たな出会いもあったと伊藤選手。ラグビーを通じて、人とのつながりを感じる機会も少なくない。スタンドで大漁旗を振る地元の人やサポーターの声援を糧に、街の復興を祈りながら熱いプレーを届ける。