【震災5年 絆はどこに(3)岩手県釜石市】
ラグビーで「逆境から立ち上がる姿」見せる 釜石シーウェイブスは地域と共に

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阪神大震災を経験、釜石では真っ先に被災現場へ

   2012年、ひとりのベテラン選手がシーウェイブスに加わった。伊藤剛臣選手――日本代表62キャップ、W杯に2度出場。強豪の神戸製鋼で長年中心選手として活躍し、44歳の今も現役を続ける、ラグビー界の「レジェンド」だ。

   伊藤選手が神戸製鋼でルーキーイヤーを終えたばかりの1995年1月17日、阪神・淡路大震災が起きた。東京・国立競技場で大学王者の大東文化大を下し、7連覇を達成してからわずか2日後の出来事だ。大一番を制した後、東京の実家で過ごし、「神戸に戻ろうと思っていたその日に、大地震が起きたのです」。

   神鋼東京本社の指示で、2週間は東京で待機。その後なんとか芦屋までたどり着くと、目に映った街の様子は一変していた。会社も、神戸製鉄所の高炉が損壊し、ラグビーの練習グラウンドは液状化の被害に見舞われた。ラグビー部は存続が決まったが、震災のダメージ、人々が受けたショックは大きかった。

   1995年度シーズンは「V8」がかかっていたが、かなわなかった。それでも、神鋼の社員はもちろん、地元・神戸の人たちが熱烈に応援してくれたと伊藤選手は振り返る。翌シーズン以降も、声援は続いた。1999年度シーズンに日本一を奪還した時は、応援してくれた人たちに「恩を返せたと思いました」。

   大震災に見舞われた神戸の街の復興を、ラグビーのプレーを続けながら見守ってきた。その伊藤選手が2012年、シーウェイブスのトライアウトを受けるために釜石に来た。真っ先に向かったのは、被災した沿岸部だった。

「理屈じゃない。本心から、自分の目で街の様子を見たかった」

   阪神大震災とは違う、津波による惨状に言葉を失った。同時に、街のシンボルでもあるラグビーで釜石を盛り上げようという気持ちを強くした。「これまでのプレーヤーとしての経験を生かして、ラグビーの街・釜石でチャレンジさせていただきたいと思いました」。

   入団直後の2012年6月、シーウェイブスと古巣の神戸製鋼の選手とスタッフが、被害の大きかった鵜住居地区でがれきの撤去、清掃活動といった支援活動をした。その後グラウンドに移り、両チームが合同で練習した後、伊藤選手は男性のオールドファンに声をかけられた。

「『よく釜石に来てくれた』と、ワカメを1袋もらいましたよ。『三陸の海でとれた、世界で一番うまいワカメだ』って。この瞬間『ああ、釜石に来たんだな』と感じましたね。地元の方々がチームに愛着を持っているんだなと」
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