編集長からの手紙 
1年間4万人を超えた体外受精児の誕生、その裏に苦闘の歴史があった

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   日本で初めての体外受精児の誕生を成功させた東北大学名誉教授、鈴木雅洲(すずきまさくに)氏が2015年11月23日、94歳で亡くなった。鈴木名誉教授のチームが体外受精に成功したのは1982年。そして、この9月、日本産婦人科学会が発表した2013年の体外受精治療件数は36万8764件、その結果で生まれた児童はついに4万人の大台を超し、4万2554人となった。これは約24人に1人が体外受精で生まれた計算になる。

   しかし、治療の現場が社会の認知を得るのに苦闘の歴史があったことはあまり知られていない。鈴木名誉教授が「ヒト体外受精・胚移植の確立と普及に関する研究」で日本学士院賞を受けたのは、この6月、初めての体外受精成功からじつに33年後である。

   仙台市青葉区の今泉産婦人科・今泉英明院長(69)は東北大学産婦人科で体外受精治療が始まったころ、鈴木教授のチームにいた。

  • 日本で初めての体外受精児の誕生を成功させた鈴木雅洲氏(写真左 スズキ記念病院提供)、鈴木氏と同じチームにいた今泉英明氏(写真右)
    日本で初めての体外受精児の誕生を成功させた鈴木雅洲氏(写真左 スズキ記念病院提供)、鈴木氏と同じチームにいた今泉英明氏(写真右)
  • 日本で初めての体外受精児の誕生を成功させた鈴木雅洲氏(写真左 スズキ記念病院提供)、鈴木氏と同じチームにいた今泉英明氏(写真右)

「何かを隠しているのではないか」と疑いの目

「体外受精成功で妊娠したというニュースがNHKに流れたあの日、私の机にあった電話は鳴りやまなかった。全国から、私も治療を受けたいという人が、すがるように話す。これほどの人が待っているのだ、と感激したものでした」

ところが一方で、疑いの目が鈴木チームに向けられた。

「何かを隠しているのではないか」

   妊娠した患者は名前の発表に同意していない。それを、不都合なことがあって隠しているのではないかと新聞、テレビから追及された。「生命の操作」「障害児の原因になるのではないか」とも書かれた。左翼団体の医師から問い詰められたこともあった。この年、たまたま日本産婦人科学会が仙台市で開かれ、その会場で右翼の男が反対のビラをまいた。鈴木教授はこの学会の会長だった。

   患者の実名を報じた新聞もあり、今泉医師はその新聞社の記者とは付き合わないことにしたという。

最初の体外受精児は1年後に死亡していた

   当時、試験管ベビーと呼ばれ、フラスコの中に赤ちゃんがいる合成画像が体外受精の誤った印象を広げた。ある作家は、人間が工場で好きなように兵士をつくり、戦場に送り込むのにつながると、生命科学の研究反対を唱えた。

   「あのときの鈴木先生の顔は苦痛で歪んでいた」と今泉医師は言う。

   実は、体外受精児第1号は1年後に死亡した。体外受精が原因ではなかったが、疑いをもたれた。ここで今泉医師と同僚の星合昊(ひろし)講師が決断する。

「疑念を晴らすため、同じ夫婦から第二子が生まれるまで大学に残ろう」

   そして4年後、第二子が誕生、元気に育ったのである。これを見て、星合医師は東北大を去り、後に近畿大学医学部教授をつとめ、日本産婦人科学会のリーダーとなった。

   鈴木教授は退官して、スズキ病院を設立、院長、理事長となる。病院は体外受精児第1号を記念する病院名をつけようとしたが、宮城県庁の担当者は難色を示したという。名称を現在の「スズキ記念病院」に改名するには20周年を待たなければならなかった。

患者のための医療を目指した鈴木雅洲氏

   今年10月3日、スズキ記念病院で学士院受賞の祝賀会が開かれた。当時の鈴木チームの関係者らが集まった前で、鈴木名誉教授は自らの一生を振り返る話を淡々としたという。

   今の不妊治療のあり方は、鈴木名誉教授が目指した患者のための医療から外れている面がある、と今泉医師は警鐘を鳴らす。

「お金になるから体外受精を進めるのではなく、患者のフトコロ具合も見ながら、いろいろな治療法を選ぶべきです。患者の気持ちを大切にしない発想はやめろ、と私は言っているのです」

   世界最初の体外受精児の誕生は1978年、英国のケンブリッジ大学教授のエドワーズ博士による。ようやく、2010年度にノーベル生理学・医学賞を受賞した。しかし、誕生直後のころは、研究費を減額されるという反発を受けている。第2号は1979年、インド・コルカタ(旧カルカッタ)のムケルジー博士によるものだが、先の記事「自殺した試験管ベビー第2号医学者の遅すぎた名誉回復」で紹介したように、政治的な反発を受けて自殺に追い込まれていた。ムケルジー博士の名誉が回復されたのも、21世紀を待たねばならなかった。

J-CASTニュース発行人 蜷川真夫

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