編集長からの手紙 
1年間4万人を超えた体外受精児の誕生、その裏に苦闘の歴史があった

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最初の体外受精児は1年後に死亡していた

   当時、試験管ベビーと呼ばれ、フラスコの中に赤ちゃんがいる合成画像が体外受精の誤った印象を広げた。ある作家は、人間が工場で好きなように兵士をつくり、戦場に送り込むのにつながると、生命科学の研究反対を唱えた。

   「あのときの鈴木先生の顔は苦痛で歪んでいた」と今泉医師は言う。

   実は、体外受精児第1号は1年後に死亡した。体外受精が原因ではなかったが、疑いをもたれた。ここで今泉医師と同僚の星合昊(ひろし)講師が決断する。

「疑念を晴らすため、同じ夫婦から第二子が生まれるまで大学に残ろう」

   そして4年後、第二子が誕生、元気に育ったのである。これを見て、星合医師は東北大を去り、後に近畿大学医学部教授をつとめ、日本産婦人科学会のリーダーとなった。

   鈴木教授は退官して、スズキ病院を設立、院長、理事長となる。病院は体外受精児第1号を記念する病院名をつけようとしたが、宮城県庁の担当者は難色を示したという。名称を現在の「スズキ記念病院」に改名するには20周年を待たなければならなかった。

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