三菱重工業の子会社「三菱航空機」が開発する国産初のジェット旅客機、「MRJ」(三菱リージョナルジェット)が2015年11月11日、初飛行に成功した。国産旅客機の初飛行はプロペラ機の「YS11」以来、53年ぶりだ。
今回のMRJの初飛行は、2017年4~6月の全日空への初納入に向けて開発の最終局面に入ったというにとどまらず、日本の航空機産業が米欧大手メーカーの「下請け」から脱する大きな一歩を歴史に刻んだと言える。
5000機の新規需要、部品は1機100万点
「航空機が自動車に次ぐ大きな産業になる」
中部経済産業局の波多野淳彦局長はMRJ初飛行後、記者会見で率直にこう語った。事実、MRJの初飛行を受けて、官民の関係者から日本の航空機産業への期待が広がっている。何しろ、部品点数は約100万点と自動車(約3万点)の30倍超で、産業としての裾野が広い。高度な安全性が求められる半面、部品価格も一般的に自動車より高いため、製造業にとって収益性も高い。
国内航空機産業の生産市場規模は現在、米欧メーカーから部品を受注する「下請け」として年間約1.3兆円程度。米国航空機市場の10分の1程度にとどまる。MRJが軌道に乗ればこの状況が大きく変わる可能性がある。三菱航空機によれば、MRJが参入する小型機市場は今後20年で北米や中国などを中心に5000機以上の新規需要が見込まれる。MRJが軌道に乗れば、「自動車に次ぐ大きな産業」は決して遠い夢ではない。
戦前の日本では100万人雇用の受け皿
日本の航空機産業の歴史を振り返ると、第2次世界大戦前は、旧三菱重工業が技術の粋を投入した「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」などの戦闘機を中心に栄え、年産約2万5000機の実績があり、100万人規模の雇用の受け皿ともなっていた。しかし、敗戦によってGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の日本弱体化政策の一環として、約7年間、航空機の開発生産が禁止され、技術伝承に空白が生じてしまった。航空機技術者の多くは自動車や鉄道に転身、それぞれの企業と産業はその後花開いたものの、航空機産業は世紀をまたいでも思うように発展できず、GHQの政策は結果的に見事成功したと言うほかない。
1952年の航空機解禁後、日本は官民挙げて開発生産にあたった。それがYS11だった。東京五輪(1964年)で聖火を運ぶなど、航空機産業復活の象徴ともなったが、寄り合い所帯ゆえのコスト意識の薄さもあって、採算がとれずに赤字続きで、1973年に生産中止を余儀なくされた。生産した機体は180機余りにとどまった。
MRJは、三菱重工業が子会社の三菱航空機を設立し、2008年に開発をスタート。ただ、半世紀近い空白も影響したようで、部品調達などに手間取ったため、当初の予定よりスケジュールは約4年遅れ、初飛行の延期は5回に及んだ。そうして迎えた初飛行だけに、三菱航空機をはじめとする関係者は一様に安堵した表情を見せていた。
カナダ・ブラジルに次いで、中国・ロシアも強敵に
ただ、MRJ初飛行も全日空への初納入に向けた通過点に過ぎない。初納入まで約1年半。今後は、航空当局の審査に合格するために、限られた時間の中で2500時間に及ぶ試験飛行を実施し、約2000項目のチェックをクリアしなければならない。審査に当たる国土交通省もほぼ初めての経験だけに欧米当局から学びながら手探りのような状態だ。
米ボーイングなどの大手メーカーがいないいわば「隙間」の小型機市場を狙っての参入だが、先行するカナダ・ボンバルディア、ブラジル・エンブラエルの2社との受注競争に打ち勝つ必要がある。MRJは両社よりも燃費性能を2割向上させ、客室を広く快適にしたことなどが「売り」だが、2社とも開発中の新型機の性能を上げており、予断を許さない。また、ここへきて中国、ロシアといった新興勢力も本格的に分け入ってくる気配が濃厚だ。MRJは初参入の市場で激しい競争にさらされることになる。
また、国内部品メーカーの裾野を広げるといっても、人材を確保し技術レベルを高めるなど数々の難題をクリアする必要がある。MRJの部品の国産率は3割程度にとどまり、「伸びしろ」があるという期待はあるが、YS11の轍を踏まないためにも、関係者は高度な舵取りを試される局面が続く。