戦前の日本では100万人雇用の受け皿
日本の航空機産業の歴史を振り返ると、第2次世界大戦前は、旧三菱重工業が技術の粋を投入した「零式艦上戦闘機(ゼロ戦)」などの戦闘機を中心に栄え、年産約2万5000機の実績があり、100万人規模の雇用の受け皿ともなっていた。しかし、敗戦によってGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の日本弱体化政策の一環として、約7年間、航空機の開発生産が禁止され、技術伝承に空白が生じてしまった。航空機技術者の多くは自動車や鉄道に転身、それぞれの企業と産業はその後花開いたものの、航空機産業は世紀をまたいでも思うように発展できず、GHQの政策は結果的に見事成功したと言うほかない。
1952年の航空機解禁後、日本は官民挙げて開発生産にあたった。それがYS11だった。東京五輪(1964年)で聖火を運ぶなど、航空機産業復活の象徴ともなったが、寄り合い所帯ゆえのコスト意識の薄さもあって、採算がとれずに赤字続きで、1973年に生産中止を余儀なくされた。生産した機体は180機余りにとどまった。
MRJは、三菱重工業が子会社の三菱航空機を設立し、2008年に開発をスタート。ただ、半世紀近い空白も影響したようで、部品調達などに手間取ったため、当初の予定よりスケジュールは約4年遅れ、初飛行の延期は5回に及んだ。そうして迎えた初飛行だけに、三菱航空機をはじめとする関係者は一様に安堵した表情を見せていた。