昭和を代表する大女優だった原節子さんが95歳で亡くなっていたことが分かり、改めてその「伝説」に注目が集まっている。50年以上も公に姿を現さなかった理由は何だったのだろうか。
「もうとっくに亡くなっておられるイメージだった」「すっぱり消えて伝説になってそのまま逝ったなぁ」
原さんは小津安二郎監督の死に殉じた?
原節子さんは、2015年9月5日に肺炎のため神奈川県内の病院で亡くなっていた。そのことが、2か月以上経った11月25日に報じられると、ネット上では、こんなお悔みの言葉が次々に上がった。
中には、名前を聞いて別の芸能人のことかと勘違いしたといった声や、若い世代では、そもそも原さんを知らなかったという告白もあった。
それもそのはず、原さんは、1963年に42歳で突然、女優を引退して、その消息がほとんど報じられなかったからだ。
原さんは、1935年に15歳で映画界にデビューし、ドイツのアーノルド・ファンク監督に目を付けられて、日独合作映画「新しき土」(1937年)のヒロインに抜擢されると一躍スターになった。
戦後も、黒澤明監督の作品「わが青春に悔なし」で注目を集め、「青い山脈」といった大ヒット映画に次々に出演して、国民的大女優への道を歩み始めた。小津安二郎監督の作品には、「晩春」(1949年)から計6本に出演し、「東京物語」などの代表作を生んでいる。
ところが、小津監督の葬儀に参列したのを最後に、公の場から姿を消してしまった。
原さん自身は、このことをまったく語っていない。各メディアが、引退の理由について、様々な憶測を立てているだけだ。
その1つが、原さんが小津監督の死に殉じたのではないかという説だ。
10月の週刊誌の取材に親族は「意識は普通」と
小津安二郎監督の愛人だったのではないかと言われ、結婚の噂まで流れたこともある。真相は分からないが、小津監督に傾倒していただけに、その死がショックだったのは間違いないようだ。
あるいは、1953年に原さんの映画のロケ中、兄が目の前で事故死したことがきっかけになったとも言われる。事故の後、度々引退をささやかれるようになったからだ。
さらに、強い照明を浴び続けたため、視力が低下したという健康説や、40歳を過ぎたら衰えた容姿を晒さない女優としての信念があったのではというものさえあった。
引退後は、ずっと独身のまま、神奈川県鎌倉市内の自宅に引きこもったような生活を続けた。時々、週刊誌やテレビでその姿を捉えられることがあったが、何をしているのかはナゾに包まれていた。
話題になったのは、1994年にかつて住んでいた東京都内の土地を売却し、12億円の高額所得があったのが報じられたときぐらいだ。
実は、週刊誌「女性自身」は2015年10月25日付記事で、原さんの自宅でおいが取材に応じ、病院に入院していると明かしていた。体調を崩したといい、「意識は、ええ、普通ですね......」と言葉を濁すように説明したという。この日までには、原さんはすでに亡くなっていたが、本人の意向で公表しないようにと言われていたというから、配慮したのかもしれない。
原さんは、「伝説の大女優」のままで亡くなった。