メディアが情報提供しなければ議論が起きない
もし、インターネットがなかったら、今回のことはどうだっただろうか。ずいぶん昔に会った日本人記者を覚えてくれていたスニット博士の執心は、残念ながら記者としての私にはなかった。たまたま博士の研究所に日本人青年が滞在したことが、再び両者を結びつけた。メディアが報じた多くの記事、情報は、こうした偶然がなければ、ごみのような存在で、そのまま意味をなくしてしまう。ときどきの偶然が、ごみを石にし、宝石にする。スニット・ムケルジー博士からのメールを引用したい。
「あれは知性とは無関係な醜い闘争でした。われわれは勝てると思っていたが、敵は強く、狡猾でした。あなたと連絡を取ろうとしたのだが、できなかった。もし、あなたがあのころにカルカッタへ来て助けてくれたら、と残念に思う。病床にあったムケルジー夫人はあなたにとても会いたがっていた。7月12日は夫人の1周忌でした。研究所で追悼会を開きました」
追悼会にはドルガさんの両親も参加したそうだ。あの闘争中に私がカルカッタへ行ったとしても、多分、何もできなかったと思う
今回の件と直接関係はないが、朝日新聞の慰安婦報道問題について、京都大学の佐藤卓己教授(メディア史)は次のように書いている。(岩波「図書」2014年11月号から)
新聞に歴史学の論文レベルでの正確さを求めるべきではない。そうした精度の要求はアクチュアルな議論を提起する公共性の機能と両立しない。新聞は公益性があると判断すれば、十分な裏を取れなくても、推測であることを明示する限り「期待」を大いに語ってよいメディアである。歴史家による検証に向けて、新聞社は情報公開に積極的であるべきなのだ。
「試験管ベイビー第2号」はまだ、歴史に刻み込まれていない。当時の私の記事は、一部では「誤報ではないか」とも言われたようだ。ネットには載っていないスバシュ博士の伝記が間もなく私の手元に届く。報道されたことが事実かどうか、確定されるまでには時間がかかることを改めて感じる。ただ、メディアが情報提供しなければ議論すらも起きない。
ネットの情報は新聞より以上に、議論提起メディアの性格を持っている。J-CASTニュースはこれを自戒しながら10年目に向かいたい。
J-CASTニュース発行人 蜷川真夫