3月11日の午後2時46分、大槌町内に物悲しいサイレンが鳴り響きました。震災から4年。1284人が犠牲になった大槌町は、今年も鎮魂と祈りの日を迎えました。碇川(いかりがわ)豊町長は町役場多目的会議室で開かれた追悼式で式辞を読み上げました。「われわれには、次世代に二度と同じような悲しみ、苦しみをさせない義務がある。教訓を風化させず引き継ぐ責任がある。先人が築き上げてきた風土、文化を絶やすことなく、世界に誇れるまちを築いていくことを誓います」
追悼式の3日前の3月8日、赤浜地区の旧赤浜小学校校庭ではサクラとのお別れ会がありました。樹齢が100年ほどになる5本のソメイヨシノが復旧事業による盛り土工事で伐採されるためです。小学校の卒業記念に植樹され、朝な夕な、登下校する児童たちを見守ってきました。大槌中学校3年の中村史佳(ふみか)さんと、藤原里緒菜(りおな)さんが、それぞれ別れの言葉を朗読しました。「私たちを見守り、大津波にも耐えて花を咲かせ、感動を与えてくれました。ありがとう」
大槌町では、やっと本格的な復興の槌音(つちおと)が響き始めています。JR東日本から三陸鉄道への移管が決まったJR山田線宮古-釜石間(55.4キロ)の復旧工事着工式も3月7日、岩手県宮古市内の宮古駅に隣接する会場でありました。復旧山田線によって南、北リアス線とつながり、岩手県大船渡市の盛から久慈市まで三陸鉄道で結ばれることになります。
ハード面での復興が加速しようとしている中で、ソフト面での立ち遅れを心配する声が強まっています。大槌町では、人口減少と少子高齢化が同時に進み、震災でその進行に拍車がかかるというダブルショックに見舞われています。
被災した住民を対象に、どのような再建策を選ぶのかを聞いた今年1月の仮申し込みの調査結果は、町に衝撃を与えました。高台に移転して自主再建を目指そうとする被災者が予想を大きく下回ったからです。独り暮らしのお年寄りらが災害公営住宅希望に回ったためと見られています。
3人に1人が65歳以上という大槌町の高齢化社会を支えるには、町内会や自治会の取り組みが欠かせません。しかし、今、仮設住宅から災害公営住宅へ、仮設住宅から戸建て住宅へと、被災者の動きが流動化しようとしています。お年寄りを見守るネットワークは、仮設住宅でほころびが生じ、転居先では未構築のままという状況が続くことが懸念されているのです。
大槌町ではその打開策の一つとして、民間事業者を巻き込んだ、お年寄りを見守るネットワークづくりに取り掛かっています。2月20日、町と宅急便配達などの12の事業者との間で協定書が交わされました。「洗濯物が干されたまま」「郵便物が郵便受けにたまったまま」「何度、訪問しても応答がない」......。事業者が日常の業務の中で異変に気付いた場合、事業者から町役場に連絡してもらい、対応する仕組みです。昨年10月に18の事業者と協定を結んでおり、見守りの輪がさらに広がることになりました。
碇川町長が強調している「ピンチをチャンスに変える」ためには、ハード面とともにソフト面での復旧、復興が不可欠です。立ちはだかる壁を町ぐるみ、地域ぐるみで乗り越えることが出来るかどうか。一からまちをつくり直そうとする試みは、いよいよ、これから正念場を迎えます。
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2013年4月から大槌町役場の職員になって2年が過ぎました。震災直後から朝日新聞記者として被災地取材を続けていましたから、大槌町とのかかわりは4年になります。震災で中心市街地が消失するという壊滅的な打撃を受けながらも再興を図ろうとする人たちに勇気をもらいながら、町の動きを取材し、広報紙や町の公式フェイスブックで情報を発信してきました。情報発信には、行政と住民が情報を共有し、心を一つにしなければ早期復興は成し遂げられないという思いがありました。さらに、全国各地から支援を送り続けている人たちに大槌町の状況をいち早く知らせる義務があるとも考えました。3月末で役場を退職するのに伴い、この連載を終えます。震災の教訓と、復興への動きが、何十年、何百年後まで風化せずに語り継がれることを願っています。
(大槌町総合政策課・但木汎)
連載【岩手・大槌町から】
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