三陸と「賢治の碑」【岩手・大槌町から】(71)

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傾いて傷ついた童話「ポラーノの広場」の碑=2012年9月8日、宮城県塩釜市
傾いて傷ついた童話「ポラーノの広場」の碑=2012年9月8日、宮城県塩釜市

   岩手県花巻市出身の宮沢賢治の作品にちなんだ碑が三陸沿岸に9基あり、震災で4基が流失したり、傷ついたりしました。明治三陸津波の年に生まれ、昭和三陸津波の年に37歳で亡くなった賢治。その文学の碑は、震災の試練に耐えながら、「平成三陸津波」を後世に伝える役割を担うことになりました。


   賢治にとって三陸沿岸は身近な場所でした。叔父が住んでいた岩手県釜石市をしばしば訪れていますし、三陸を2度、旅してもいます。賢治は童話「ポラーノの広場」で、三陸海岸を「イーハトーヴォ海岸」と呼んで海岸の光景や地元の人たちの姿を描写し、「たびたびわたくしはもうこれで死んでもいゝと思ひました」と記しています。


   碑は、詩碑が6基、歌碑が1基、童話などの文章を刻んだ碑が2基あり、宮城県塩釜市から岩手県普代村までの間に点在していました。


   宮城県石巻市の「われらひとしく丘に立ち」詩碑、宮城県気仙沼市の「雨ニモマケズ」詩碑、岩手県田野畑村の「発動機船 三」詩碑はそれぞれ高台にあって無事で、岩手県宮古市の「寂光のはま」歌碑、岩手県普代村の「敗れし少年の歌へる」詩碑は、それぞれ津波に襲われながら残りました。


高台にあって無事だった「われらひとしく丘に立ち」詩碑=2012年9月8日、宮城県石巻市
高台にあって無事だった「われらひとしく丘に立ち」詩碑=2012年9月8日、宮城県石巻市
高台にあって無事だった「雨ニモマケズ」詩碑=2012年9月14日、宮城県気仙沼市
高台にあって無事だった「雨ニモマケズ」詩碑=2012年9月14日、宮城県気仙沼市
高台で無事だった「発動機船 三」の詩碑=2012年9月18日、岩手県田野畑村
高台で無事だった「発動機船 三」の詩碑=2012年9月18日、岩手県田野畑村
津波に襲われても無事だった「寂光のはま」の歌碑=2012年9月18日、岩手県宮古市
津波に襲われても無事だった「寂光のはま」の歌碑=2012年9月18日、岩手県宮古市
津波に襲われて無事だった「敗れし少年の歌へる」の詩碑=2012年9月18日、岩手県普代村
津波に襲われて無事だった「敗れし少年の歌へる」の詩碑=2012年9月18日、岩手県普代村

   その一方で、岩手県陸前高田市にあった「農民芸術概論綱要」の一節を刻んだ銅板の碑面は、流出して行方不明になりました。また、岩手県田野畑村の「発動機船 一」詩碑は流され、約3か月後に発見されました。宮城県塩釜市の「ポラーノの広場」碑と岩手県田野畑村の「発動機船 第二」詩碑は、傷ついて残りました。


   それぞれの碑には、それぞれのドラマがありました。陸前高田市で流出した碑面には、哲学者の故谷川徹三氏が揮毫した「まづもろともにかゞやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」との一節が刻まれていました。碑は、津波で全壊した岩手県立高田高校の敷地内に建立され、朝な夕な、生徒たちの登下校を見守っていました。


碑文が流出した「農民芸術概論綱要」の碑=2012年9月14日、岩手県陸前高田市
碑文が流出した「農民芸術概論綱要」の碑=2012年9月14日、岩手県陸前高田市
流失した銅板に刻まれていた「農民芸術概論綱要」の一節=2012年9月14日、岩手県陸前高田市
流失した銅板に刻まれていた「農民芸術概論綱要」の一節=2012年9月14日、岩手県陸前高田市
流されて発見された「発動機船 一」の詩碑=2012年9月18日、岩手県田野畑村
流されて発見された「発動機船 一」の詩碑=2012年9月18日、岩手県田野畑村
傷ついた「発動機船 第二」の詩碑=2012年9月18日、岩手県田野畑村
傷ついた「発動機船 第二」の詩碑=2012年9月18日、岩手県田野畑村

   田野畑村の「発動機船 第二」詩碑は、設計のこだわりから流失を免れました。「船長は一人の手下を従へて/手を腰にあて/たうたうたうたう尖ったくらいラッパを吹く」で始まる詩が刻まれた碑は、三陸鉄道北リアス線島越駅前に建てられました。制作したのは東京都三鷹市の建築設計士大村一彦さん。大村さんは碑の向きにこだわりました。船が港から出港するイメージで、海岸線に対し直角の向きに建てたい。計画が変更されました。襲ってきた津波は駅舎を全壊させましたが、碑は、向きを変えたことで津波の衝撃を交わすことができたのです。

(大槌町総合政策課・但木汎)


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