菅原文太さん葬儀、なぜ太宰府天満宮で? 13年前の「悲劇」以降、足繁く通っていた

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「息子の眠る地で」と決めていた?

   東映広報室は「息子さんのことがあり、太宰府天満宮にはよほど思い入れがあったのだと思います」と説明する。自身に死が訪れた際には「息子が眠る地で」と決めていたのだろう。なお、亡くなったのは都内の病院だが、晩年は福岡市内に持っていた自宅マンションで過ごしていたと報じられている。息を引き取った後、遺体は福岡に運ばれた。

   喪主を務めた妻の文子さんは下記のコメントを発表した。

「七年前に膀胱がんを発症して以来、以前の人生とは違う学びの時間を持ち『朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり』の心境で日々を過ごしてきたと察しております。『落花は枝に還らず』と申しますが、小さな種を蒔いて去りました。一つは、先進諸国に比べて格段に生産量の少ない無農薬有機農業を広めること。もう一粒の種は、日本が再び戦争をしないという願いが立ち枯れ、荒野に戻ってしまわないよう、共に声を上げることでした。すでに祖霊の一人となった今も、生者とともにあって、これらを願い続けているだろうと思います。恩義ある方々に、何の別れも告げずに旅立ちましたことを、ここにお詫び申し上げます」

   訃報を受け、吉永小百合さんや愛川欽也さんら共演者が続々と追悼コメントを寄せており、ツイッターでも浅野忠信さんが「菅原文太さん 撮影で一緒に過ごした時間がとても楽しかったです ありがとうございました 心からご冥福をお祈りします」とコメントしている。

   また、映画監督の岩井俊二さんは「母校仙台一高の先輩でした」とし、ツイッターで1本の動画を紹介した。11月1日、沖縄知事選に立候補して当選した翁長雄志氏の応援にかけつけた菅原さんが「政治の役割は2つあります。1つは国民を飢えさせないこと。もう1つは絶対に戦争をしないこと」と力強く訴える姿が映ったもので、岩井さんは「わずかひと月前の沖縄知事選での勇姿。... 本当に最後まで偉大な先輩でした」と感慨深げにつぶやいた。

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