東日本大震災発生後に菅直人首相(当時)が東京電力本店で行った演説を「史上最低演説」と酷評した寺田学首相補佐官(同)に対して政府の事故調査委員会が行ったヒヤリングの記録(調書)が2014年11月12日、内閣官房のウェブサイトで公表された。
菅首相は震災発生翌日の3月12日早朝にヘリコプターで福島第1原発を訪問したことについて批判を浴びたが、再び現地を訪れて陣頭指揮を執ることを考えていたことも分かった。ただ、この原発再訪のプランは、寺田氏の説得で思いとどまったという。・
原発での扱いは「およそ一国の総理が扱われるような扱い方ではまずなかった」
寺田氏のヒヤリングの記録は、新たに公表された56人分のうちの1人分。
調書によると、原発訪問は菅氏が発案し、菅氏に同行する「(議員)バッチが付いている人間」として福山哲郎官房副長官と寺田氏の名前があがったが、秋田県出身の寺田氏が「東北の人間」ということで名乗り出て同行が決まった。ただ、寺田氏は、
「正直申し上げて福島に行くことに対しては、恐怖感がなかったと言えばうそになると思います」
と明かしている。
一行はヘリから降りてマイクロバスに乗り免震重要棟に移動したが、
「私の印象としては、およそ一国の総理が扱われるような扱い方ではまずなかった」
という。入口の二重扉の前で「早く入れ」と怒鳴られたからだ。もっともこの点については、現場は首相が来ることを認識していなかった可能性も指摘されている。例えば菅政権で内閣広報室審議官を務め、原発視察に同行した下村健一氏は、著書「首相官邸で働いて初めてわかったこと(朝日新書)」でこう書いている。
「玄関の所で我々一行が一瞬もたついていると、中から誰かが、『早く入れ!』と怒鳴った。その口調から察すると、どうやらここに総理が来ているとは、幹部以外の現場の人たちは知らされていないんだな、と僕は感じた」
「早く入れ!」の怒鳴り声がどう影響したは分からないが、菅氏は現場でも「イラカン」ぶりを隠すことはできなかった。寺田氏によると、放射線量を測る途中に菅氏はいらだっていた。
「勝手がわかりませんから、総理も線量計で体を測られていて、恐らく最初はそういうものだと思ったのですが、なぜ私がこれをされているのだという話になって、とにかく早く打ち合わせをしようということで打ち切られて上に上がっていきます」
菅氏はこの点について、政府事故調のヒヤリングに対してこう説明している。
「実際に会議室はあったんですが、入った途端に並んでくれと。並んだら、そういう列の後ろでこうやられたものですから、ちょっと待ってくれと。そういう一般の作業員が作業をして、帰ってきて、線量を測っているということで来た仕事ではないんだという意味で言ったんです」
「吉田さんの方がポジティブに何かを解決しようという」
主に菅首相一行に対応した東電幹部は、武藤栄副社長と吉田昌郎所長。2人に対する評価は対照的だ。
「私の個人的な素人的な感じで見ても、非常に吉田さんの方がポジティブに何かを解決しようという意味での意識を持って、かつ体系的に物事をとらえている感じがありましたけれども、武藤さんはどちらかというとなぜできないこと(原文ママ、「なぜできないか」の意とみられる)を列挙しているような雰囲気があった」
その結果、菅氏は武藤氏に厳しく、吉田氏に対しては「現場監督としては彼なら任せられるという印象を持たれたのは近くにいて思いました」という。
菅氏は「現場に行って」「陣頭指揮を執る」覚悟持っていた
だが、それでも菅氏は「再び現場に行く」必要性を感じていたようだ。菅氏は3月15日早朝に東電本店に乗り込んだが、寺田氏は車に同乗したときの様子をこう回想している。
「総理自身がそのときに本当に線量が最後まで上がっているときには、最後、自分はその場で現場に行って、現場とはどこまでの現場かわかりませんけれども、陣頭指揮を執ることをせねばいけないだろうという覚悟を持たれていました」
ただ、首相が移動するとなると警護官や秘書官など多数を動員する必要があることから、寺田氏が思いとどまるように説得したという。
「総理が行かれることに関しては最大限努力するけれども、ある種決死隊のように自分たちまで行けるかとなると、そこはできていないからちゃんと整理しますという話の了解をとりました」
到着後、菅氏が大勢の社員の前で、
「撤退したら東電は100%つぶれる。逃げてみたって逃げ切れないぞ」
などと怒鳴って不興を買ったのは周知のとおりだ。この時の様子を、寺田氏の調書では、
「同じことを3回ぐらいループしながらしゃべっていました」
と冷ややかに振り返っている。