広島原爆の日にあたる2014年8月6日、作家の百田尚樹氏がツイッターで「これを大虐殺と言わずしてなんと言う!日本人は決して忘れてはならない」と大勢の非戦闘員が犠牲になったことを改めて非難した。
その中で、「京都・奈良は文化遺産を守るために爆撃しなかった」といった説についても反論。この説を信じる人を「マヌケな日本人」と罵倒。この説を信じていた人は意外に多いようで、「信じてました」といったツイートをする人も相次いでいる。
「これを大虐殺と言わずしてなんと言う!日本人は決して忘れてはならない」
日本のどこに原爆を投下するかについて、米国は、1945年の5月に開かれた目標選定委員会で、(1)直径3マイル(4.8キロ)以上の広さで、大きな都市地域にある重要目標であること(2)爆風が効率的にダメージを与えること(3)1945年8月まで爆撃を受けなさそうなもの、といった候補地選定の基準を設定。その結果、小倉、広島、横浜、新潟、京都の5都市が選ばれた。京都は軍需産業もあることから有力な候補地だとされていた。これらの都市については、原爆投下の効果を正確に測定するため、米軍の空爆は禁止されたという。奈良は3条件を満たさなかったため、候補から外れた形だ。
百田氏のツイートでは、原爆投下を
「女性や子供を含む一般市民を一瞬にして10万人以上も殺した。10万人以上である!これを大虐殺と言わずしてなんと言う!日本人は決して忘れてはならない」
と非難。その上で、
「アメリカは第二次世界大戦の時にも、文化遺産を大切にし、京都や奈良を爆撃しなかったと思っているマヌケな日本人が沢山いる。アメリカが京都を空襲しなかったのは原爆投下目標都市だったからだ。京都が最終的に候補から外れたのは7月だ。奈良を空襲しなかったのは、人口が少なかったからだ」
と主張した。
京都を候補地から外そうとする駆け引きは存在した
京都への原爆投下をめぐっては、新婚旅行で京都を訪れたことがあるスチムソン陸軍長官が反対し続けたことが広く知られている。1945年5月の時点でスチムソン氏は、マンハッタン計画を指揮したグローヴス准将に対して京都を候補から外すように求めたが、グローヴス氏は京都の軍事的、産業的重要性から難色を示した。その後スチムソン氏はトルーマン大統領にアプローチし、一度は京都が候補から外れた。7月になってグローヴス氏は京都を再び候補に戻そうと試みたが、失敗に終わった。
つまり、百田氏がツイートしているように、「京都が最終的に候補から外れたのは7月」で、そのまま8月の終戦を迎えたために結果として大規模な空襲を逃れたというわけだ。
原爆投下については、米国内でも一部の科学者が反対したり、どこに投下するかなどをめぐり、様々な動きがあったりしたことが知られている。長崎の原爆も、直前まで小倉に投下されるはずだった。
スチムソン氏らは、もし京都を原爆で破壊した場合、戦後の日本の復興に大きなマイナスとなり、日本をソ連寄りにする可能性があるということも心配していたようだ。最終的にスチムソン氏が押し切ったことで、戦後、米国側から「京都については文化遺産に配慮した」という宣伝が積極的にされることになり、そうした「俗説」が定着することになったとみる向きもある。
なお、京都は45年1月から6月にわたって5回の空襲を受けており、奈良への空襲は数十回も行われている。